『説文解字』成立の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 01:07 UTC 版)
前漢の儒教では五経博士が家法によって経書を講釈していた。やがて孔子旧宅の壁中や民間から、博士が教えるものとは違うテキストが発見された。これは、先秦時代の古い書体で書かれていたので、通行の隷書体(今文)のテキストに対して古文経伝と呼ばれた。前漢末の劉歆はこれを学官に立てようとして既存の博士たちと対立したが、平帝の時代と王莽の新朝で学官に立てられた。しかし、後漢では王莽政権を否定するため、今文学が継承され、古文経伝に学官が立てられることはなかった。そのため、古文学は民間で行われるようになり、経文の一字一句を解釈する訓詁学を発展させた。その強みは今文経学が一経専門で視野が狭いのに対して、文字に還元することで六経全般に貫通する解釈を打ち出せることであった。そのような状況で古文学者の賈逵の弟子に許慎が出た。彼は古文学の正統性を字体の違いに見いだし、古い先秦の字体に基づくことを今文学を攻撃する道具とした。そして、篆書や古文を『説文解字』にまとめ、『周礼』古文義法の六書説に従った「字形」による文字解釈の方法を確立させたのである。
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