『唐浦破倭兵状』よりとは? わかりやすく解説

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『唐浦破倭兵状』より

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 02:18 UTC 版)

泗川海戦」の記事における「『唐浦破倭兵状』より」の解説

5月7、8日の玉浦合浦・赤珍浦での襲撃成功させた李舜臣はすぐに撤収したが、日本水軍もこれを追跡せずに、釜山から水陸並進して巨済島以西徐々に進出するという方法をとった。 朝鮮水軍では6月初旬あたりを予想していたが、それより早い5月27日元均慶尚使)が根拠地としていた昆陽近くである泗川にまで10隻余の日本軍迫ったとの報告があって、元均慶尚水営をさらに露移した5月29日李舜臣全羅使)は予定早めて配下板屋23隻と夢亀(虞候)が指揮する亀甲船率いて出撃した。李億祺全羅使)に伝令送ったがこれとは連絡がつかず、露沖で元均板屋船3隻と合流した。さらに東に向かって進んでいったところ、昆陽から泗川出航した1隻の日本の船舶に遭遇したので、前衛李純信(防踏僉使)、奇孝謹(南海県令)がこれを追跡し泗川湾口至って日本船は上陸して陸に逃げたので、浜辺遺棄された船を焼いた。 そこから泗川船倉望見すると、うねうねと続く山並7、8里ばかり離れた険峻ところに日本軍400名余が長蛇の陣を布き紅白の旗をはためかせていた。山頂には指揮であろう幕営があり、岸壁の下には楼閣を持つ和船12停泊していた。 朝鮮水軍の諸船は突入しようと考えたが、敵陣は矢の射程外で、すでに引き潮になっていたので、接近していけば大型板屋船では操船困難になる恐れがあり、また日本軍高地陣していたことから射撃戦でも不利で、日暮れも近づいていた。そこで李舜臣諸将退却指示し偽装退却で敵を湾の深み誘き出すことにした。1里ほど後退すると、日本軍半分200名が陣を出て来たが、李舜臣の策には乗らず、その半分100名が停泊する船を守り残り100名が岸上から銃撃してきただけだった。李舜臣はこれに応戦できないままであれば臆して退却したことになると危惧した。すると潮目変わり操船適した水位戻ったので、反転して突入することにした。 李舜臣は、予てより倭寇との戦いのために準備させていた亀甲船投入することにして、これを先頭にして砲を放ちながら岸に迫り停泊する船列に突入していった。山頂、岸、船の守り付いていた日本軍鉄砲応戦激し銃撃戦の中で、銃弾1つ李舜臣の左肩を貫いた。しかし多勢に無勢であり、日本軍高地退却した朝鮮水軍残され和船をすべて焼いた日が暮れると、小船数隻を残して撤収し泗川地毛自郞浦に停泊した

※この「『唐浦破倭兵状』より」の解説は、「泗川海戦」の解説の一部です。
「『唐浦破倭兵状』より」を含む「泗川海戦」の記事については、「泗川海戦」の概要を参照ください。

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