「M1重戦車」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 23:37 UTC 版)
1942年初頭、日本軍はアメリカ軍の新型重戦車「T1」(主砲76.2mm、重量57トン、速度約40km)の情報を掴んだ。つづいて「M1重戦車」の存在が囁かれるようになった。このときM1重戦車と呼ばれていたのは、T1試作重戦車の生産型であるM6重戦車だった。役割については、中戦車を後方から援護する自走砲的な支援戦車と位置づけていた。 1942年には北アフリカ戦線にM1甲重戦車が投入されたとの情報を得ており、その後ティーガー戦車に対抗するべく火力と装甲を強化したM1乙重戦車が投入されたとの報告を受け、今後極東にも投入が行われると予想されたために同戦車の情報収集が図られた。1944年初頭にソ連関係で入手した情報には、M1重戦車ドレッドノートやM6重戦車と記載されている。日本側では非現実的なほどに性能を過大評価し、1945年の時点では武装について75mmまたは105mm砲1門、37mm砲1門、12.7mm機関銃2丁、7.62mm機関銃2丁とされ、正面装甲は200mmから240mmとされていた。 M26が太平洋戦線で実戦に投入された記録はないが、日本側では沖縄戦および硫黄島の戦いにおいてM1重戦車との交戦報告があった。大本営陸軍部では1945年6月16日にM1重戦車の情報をまとめた緊急の戦訓報告「戦訓特報第五十六号 対M一重戦車戦法」を全軍に通達した。これによれば、硫黄島では80台のM1重戦車が投入されたとしている。 硫黄島の戦いに現れたM1重戦車は動きが鈍重で、大口径砲の射撃を受けるとすぐに後退したという。また、先制攻撃を行った九〇式野砲が初弾で撃破されたことから何らかのレーダー装置(音波探知機または電波探知機)の搭載を予想し、敵前での徹底した静寂が呼びかけられた。日本軍が保有する通常の対戦車火器での撃破は不可能とされたため、本土決戦の際には肉薄攻撃のほか、カノン砲や高射砲の水平射撃によって対抗することが想定されていた。
※この「「M1重戦車」」の解説は、「M26パーシング」の解説の一部です。
「「M1重戦車」」を含む「M26パーシング」の記事については、「M26パーシング」の概要を参照ください。
- 「M1重戦車」のページへのリンク