「自然文学」としての説経節
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 10:08 UTC 版)
「説経節」の記事における「「自然文学」としての説経節」の解説
今までみてきたように、説経節の起源は古く、鎌倉・南北朝の時代にさかのぼるものの、乞食芸能として民衆の底辺にあり、日本文化史においては長く埋もれた存在であった。他の芸能や語りものについては、室町時代の貴族の日記や文書にしばしば散見されるのに対し、最下層の民によって演じられる説経節についてはほとんど文献記録がのこらなかったのである。陰惨でグロテスクな描写を含むストーリーもまた、必ずしも貴族たちの嗜好に沿うものではなかったと考えられる。 このようなことから、説経節によって語られた演目の多くは、その形成のプロセスを解きほぐすことがきわめて困難である。中世にあっては、説経節のほかに、唱導の流れを引くさまざまな語りものがあり、これらの芸能を担って各地を語り歩いた多様な下級宗教家が存在したが、これら多様な芸能者のあいだには逢坂山の蝉丸神社などを通じて直接・間接のさかんな交流があった。したがって、それぞれの語りもののあいだに影響や摂取の重層的な相互関係があり、ささら説経の徒はこうしたなかから自らの芸能にふさわしいものを吸収し、説経節の世界を創造したものと考えられる。 いっぽう、下級宗教者が民衆のなかに入っていった目的として本来は信仰の宣布ということがあったはずであるが、それが庶民に受け入れられるためには、彼らに固有の信仰や土俗慣習などと結びつき、人びとの意識・感情・情念・想像力といったものを汲み取らなくてはならなかった。その意味で説経節は、語り手と聴衆とが、その濃密な関係性のなかで一体となって育んできた芸能でもあった。こうした多層的・複合的性格のゆえに、この芸能の形成過程を単純に割り出すことはいっそう難しいのである。しかし、一方では特定の信仰の宣伝という直接的な動機から離れ、それにともなう効果・効力という功利的な側面をも失った反面、日本の中世民衆の文学的想像力がより自由に表現されたものになっていることは確かであり、その意味で、ドイツの哲学者・文学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーが18世紀後葉に語った「自然文学」(特定個人の創作文学ではなく民衆のなかから自然発生的に生まれてきた文学)と形容してよい内実を備えている。
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