「渡米雑誌」への変貌
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「社会主義」は1904年12月3日の8巻14号まで社会主義協会機関誌として刊行され、その後1905年1月3日発行の9巻1号から「渡米雑誌」に改題された(月刊、B5版)。この背景には、「社会主義」への弾圧を避ける目的と、運動の中心が「平民新聞」に移ったことから「社会主義」の読者層が一変したという事情が存在した。片山の論考は山根に編集が移ってからも載り続けていたが、他の社会主義者の寄稿は徐々に減り、次第に「渡米協会」に関する記事が誌面に埋めるようになっていたのである。ただし、改題後も英題は「The Socialist」、発行所は労働新聞社のままとした。1906年中には、「社会主義」の面影を残していた「世界動静」欄が廃止され、社会主義の要素としてはわずかに片山らの著作の広告や社会主義者の消息が載せられるのみとなった。1906年に「渡米協会会長」である片山が一時帰国すると、山根は「渡米雑誌」と片山の絶縁を誌上で表明、編集部はキングスレー館から退去し新たに「渡米雑誌社」と名乗ったほか、「渡米協会」も分裂設立した。最終的に内容から社会主義色は取り払われ、内務省警保局の調査でも「社会主義の機関を脱した」として監視対象から外された。 その後、1907年6月の10巻10号から増本河南を主筆に迎えた。また、新たに「日米協会」を設立し、文庫回覧、慰問、結婚紹介などの事業を行った。1907年の11巻1号から「亜米利加」に改題し、社名も「亜米利加社」となっている。総合アメリカ情報誌としての内実を充実させ、セオドア・ルーズベルトの称揚、小説の掲載、職業紹介などの新機軸がとられた。日本社会党の「日刊平民新聞」が創刊された際には、「金儲けしたき人は読べし」(ママ)という広告を出稿している。1907年3月号から「日米通信」増刊号の形をとり、1908年5月まで刊行された。また、「渡米協会」の媒体は社会新聞や、片山を主筆とする雑誌「渡米」などに引き継がれた。
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