「楽しい」と「わかる」の矛盾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 07:13 UTC 版)
「たのしい授業学派」の記事における「「楽しい」と「わかる」の矛盾」の解説
1970年代は教育において「楽しい授業」の重要性が主張されるようになった時期である。1973年頃から民間教育研究運動においても「楽しくわかる授業」が目指されるようになった。そのような中で、板倉聖宣は「わかる」よりも「楽しい」を強調する議論を展開した。もともと板倉聖宣は「楽しい」と「わかる」とを対立させていたわけではなかったが、仮説実験授業の授業書の作成・改訂作業を通して、「わかる」を追求すると「楽しい」と両立しなくなる場合があるという問題が、1970年代になって顕在化していた。 犬塚清和は、1974年のレポートで、改訂版よりも初版の授業書で授業した結果の方が、子どもたちが「たのしい」と評価したことについて、 現在の教育で、「楽しくてよくわからない」授業ほど評価の低い授業はない。「楽しくなくてよくわからない」授業は無視されて通るが、「楽しくてよくわからない」授業が罪悪視される風潮、そして「楽しくないけどよくわかる」授業をよしとする風潮に大きなギモンを持ち始め、わかるわからないはともかく、「楽しく」ありたいと思っていたボクを、この結果は満たしてくれた……「楽しくてよくわからない」授業のスキなボクを満足させてくれる授業書がもっと出てこないかなあ。 と述べている。このように「楽しい」と「わかる」が矛盾する場合のあることを、初めて提起したのは犬塚清和であると考えられる。 そのような実績を踏まえて板倉聖宣は「楽しい」と「わかる」をあえて対立させることを提起するようになった。それは教育目標を選択するときの基準として「楽しい」を位置付けることを提起するものであった。 「楽しい」は「わかる」と共に教育目標に位置付くものではなく、目的として位置付くものとされた。従って板倉は「わからないけれども楽しい」授業の方が、「わかるけれども楽しくない」授業よりもはるかに重要だと主張した。板倉聖宣の「楽しい授業」は、1つの授業の中でどちらを追求するかということではなく、別々の授業でそのような感じ方の違いがあったとき、どちらの授業を重視するかということを問題にしていた。 板倉聖宣は1974年8月23日の四国数学教育協議会主催の研究集会の講演で「わかる授業というスローガンはどうもあやしい」と疑義を唱えた。その上で良い授業の順番として、 楽しくて - わかる 楽しいが - わからない 楽しくないが - わかる 楽しくなくて - わからない という4つの組み合わせを取り上げ、「どれがより民主主義的であるか」について聴衆に問うた。板倉の答は、 今の教師の常識、ないしは良識では「1,3,2,4」という順番になる。しかし、私は「1,2,4,3」と順番を付けます。3のような授業は「悪しき人間改造」でもっともいけない。「楽しくなくてわかる授業は人権侵害だ」。 というものであった。この1974年の板倉の講演は、教育関係者に少なからず影響をおよぼし、仮説実験授業研究会の関係者以外の論文やブログでも引用、紹介されている。 仮説実験授業が提唱されたときの目的は「主体的な人間」つまり「自分の頭で考えられる人間」の育成である。そこでは、「正しい科学的概念を身につけること」はいわば手段にすぎず、科学概念・知識の獲得、つまり「わかる授業」は二次的なものであり、最終的な目的は「主体的な人間の育成」であり、そのための「たのしい授業」である。 現在の教育研究の主流は「正しい科学概念を理解・定着させること」が目的となっており、そこでは、「教える内容=正しい科学概念」の正当性は問われない。正しい科学概念と対立・矛盾する概念は「誤概念」と呼ばれ、「克服され排除されなければならないもの」とされている。それは「正しい知識だからわからせよう、知らせよう」という態度とつながる。その科学概念は科学者や理科教師の立場からは「学ぶ意味の大きいことだ」と思われるのかもしれないが、「たのしい授業学派」は「その授業がどれだけ楽しいものになるか」が教育するかしないかの、「一番確かなよりどころ」と考える。
※この「「楽しい」と「わかる」の矛盾」の解説は、「たのしい授業学派」の解説の一部です。
「「楽しい」と「わかる」の矛盾」を含む「たのしい授業学派」の記事については、「たのしい授業学派」の概要を参照ください。
- 「楽しい」と「わかる」の矛盾のページへのリンク