「塔出版会社」と「バイブル・ハウス」
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「チャールズ・テイズ・ラッセル」の記事における「「塔出版会社」と「バイブル・ハウス」」の解説
彼は、1886年から全七巻に渡る『千年期黎明 (Millennial Dawn)』(後に『聖書研究 (Studies in the Scriptures)』と呼ばれた)の執筆に着手した。しかし、最後の第七巻を書く前に亡くなった(第七巻『終了した秘義 (The Finished Mystery)』は、クレイトン・J・ウッドワースとジョージ・H・フィッシャーによって書かれた)。1887年からはラッセルが所有した「塔出版会社 (Tower Publishing Company)」で印刷を開始し、1898年まで用いられた。協会本部の拡張が必要となり、1889年にアレゲーニーのアーチ通り56-60番に4階建てのレンガ造りの建物が建設された。そこは「バイブル・ハウス (Bible House)」と呼ばれ、1909年まで本部として用いられた。 1891年4月19日から25日にかけて、初めての大会がペンシルベニア州アレゲーニーにて開催され、こうした初期の大会は主の記念式と関連していた。1891年、ラッセルとその一行は海外旅行へと赴き、ヨーロッパ、アジア、アフリカを回って宣教活動を行った。こうして、協会の文書は、ドイツ語、フランス語、スウェーデン語、ノルウェー標準語、ポーランド語、ギリシャ語、イタリア語で出版されるようになった。1895年、彼は「黎明会 (Dawn Circles)」(後に「聖書研究のためのベレア人会」と呼ばれた)という集会も取り決めた。1894年には、協会の代表者21名が諸会衆を訪問する取り決めがなされ、「巡礼者」(現在の「巡回監督」や「地域監督」)と呼ばれた。 1896年に「シオンのものみの塔冊子協会」は「ものみの塔聖書冊子協会 (Watch Tower Bible and Tract Society)」と名称が変更された。1898年、ラッセルは「塔出版会社」をものみの塔協会に寄贈し、植字と組版は「バイブル・ハウス」の成員に任され、印刷は民間事業に注文するようになった。1890年代後半は、各地の大会でラッセルは講演をした。その風貌は、長めの黒いフロックコートを着て、白いネクタイをし、大きな声ではなかったが、マイクやスピーカーは当時発明されていなかったので使用せず、講話中は常に身振りをし、演壇を歩き回り、原稿を使う事はなかったという。
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