「堺幕府」論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:31 UTC 版)
中世史家の今谷明は、戦国期畿内政治史を修士論文のテーマとして室町幕府と細川・三好氏など他の大名家の交付した文書を分析し、朝廷の改元を無視した奉行人連署奉書があることに疑問を抱いた。斎藤基速・斎藤誠基を中心に幕府奉行人層の出身者と思しい6名がこの旧年号使用の文書計17通の署名者(奉者)となっており、蒐集を進めた結果、それらを含む50数通がこの集団によって出され、京都の古寺社や公家の旧家に残存していることが判明した。 奉行人奉書は大永7年(1527年)から享禄4年(1531年)の4年間に集中して出されており、「堺公方御下知」と呼ばれている目録のあるものを基に、堺公方義維の発給文書であると推測するに至った。そして、当時の室町幕府は京都不在で機能を停止しており、堺公方の政権(堺幕府)は幕府としての機構を備え、京都を中心に実質的な支配を行っていたと論じた。 しかし、義維は将軍宣下をついに受けることはなく入京も果たさないまま短期間で没落したため、そのような地域権力を幕府と呼びうるのかという異論もある。例えば、将軍義晴側の奉行人奉書がほぼ同数発給されていた事実も明らかになっているなど、幕府(江州大樹)が機能を停止したとは言うには厳しい。また、義晴は多くの守護や国人に軍勢を催促する御内書を送り、守護への偏諱授与や官位の昇任申請も行っている。しかし現在のところ、それに対した義維の御内書は、わずかしか確認されていない。 これらのことを踏まえると、堺公方の政権は、幕府(江州大樹)に取って代わる可能性があったが、それは可能性のままで終わり、中央政権になり損ねた一地方政権であった、ということになる。
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