「塩の町」足助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 13:57 UTC 版)
「足助町 (豊田市)」の記事における「「塩の町」足助」の解説
物資の中継地としても栄えた足助町を最も象徴するものに塩がある。足助まで運ばれる塩には主に三河産の塩と播磨産をはじめとする西国塩とがあり、前者は矢作川・巴川水運、後者は名古屋から伊那街道で入ってきた。ここで各産地の塩を混ぜ合わせて品質を整え、運送に適するよう俵を改装する「塩ふみ」を行った上で、「足助塩」「足助直(なおし)」の銘柄をもって信濃国伊那地方に送り込んだのである。山がちの街道をつたう塩の運送手段として中馬が多く利用されたことから、伊那街道は別名中馬街道とも呼ばれ、現在では国道153号のうち豊田市中心部から大野瀬町の長野県境付近にいたるまでが「塩の道~中馬街道」として日本風景街道のひとつに登録されている。 三河湾沿いでは大浜塩、棚尾塩、生田塩、饗場(あいば)塩、成岩(ならわ)塩といったそれぞれの生産地の名を冠した塩が特産品として知られており、江戸時代に入ると、これらの三河産の塩は舟運によって矢作川を遡上して岡崎の八丁土場(現岡崎市八帖町)で陸揚げされ、塩荷の検問、岡崎塩座への納入を経た後に、馬の背により陸路をとって足助まで運ばれた。この陸路は里程が約七里であったことから七里街道と呼ばれ、現在の愛知県道39号岡崎足助線はこのルートをおおよそ継承している。岡崎塩座は江戸幕府より塩の専売を公認された特権商人の集団で、三河産の塩はすべてここに納められ、岡崎領内、他領、天領、寺社領などにおける販売もすべて塩座を通すことが定められていた。また塩荷主から1俵につき10文の座銭も徴収していたという。三河産の塩を多く扱っていた足助もこの岡崎塩座の存在による制約から自由ではなかったが、前述のように伊那街道より入る西国塩のルートも持っていたことから、江戸時代後期の天保年間には14件の塩問屋があったといわれ、この時代の塩の扱い量は、後に足助塩の最盛期を迎える明治時代にすでに肉薄していたと考えられる。明治時代になると、岡崎塩座が消滅したことで座銭の徴収・積荷の検問も無くなり、矢作川筋では古鼠渡場(ふっそどば、現扶桑町)、巴川筋では平古渡場(ひらこどば、現岩倉町)まで舟荷が来るようになる。低価格の塩が大量に短期間に入荷されるようになった結果、塩問屋の利幅も広がったはずであり、この時期足助問屋の烙印が押された塩俵をうずたかく積んだ光景が、まさに塩の町足助の繁栄ぶりを象徴するようになった。この繁栄は1911年(明治44年)5月1日に国鉄中央本線が全面開通する頃まで続くこととなる。
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