「ロシアの西欧化」と農奴制
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「ロシアの農奴制」の記事における「「ロシアの西欧化」と農奴制」の解説
「インペラトール(皇帝)」をみずから名乗ってロシア帝国を創始したピョートル1世は、西欧化を推進する財源を確保する必要から農奴制をむしろ強化した。1705年には、勅令が出され、初めての徴兵がなされた。1719年には、全国の農村を対象に住民調査がおこなわれたが、ここでの人口調査の目的は、課税単位を「世帯」から「個人」へと変えることであった。こうして、農民は、人頭税の財源として、いわば世襲的に土地に緊縛されるようになったのである。 人頭税は、平時における軍事費として位置づけられていた。そして、農民にとって特に負担だったのは、軍隊の農村配備であった。農村地域に設けられた兵営の部隊は、管轄下の各村落に出向いて人頭税を徴収した。また、人頭税の導入は従来は課税対象とされなかった家内奴隷(ホロープ)をも農民と同様に調査・課税するものだったので、間接的にではあったが、一般農民のいっそうの地位低下と困窮をまねいた、農村の多くは、慢性的な不作や兵営宿舎建設などで疲弊しており、人頭税の滞納が各地で累積し、農民逃亡があいついだ。 18世紀中ごろのロシアでは、依然として中世的な三圃式農業がおこなわれ、1頭の馬がひく木製の犂では深耕もできなかったため、その生産性は低かった。1733年から1735年にかけての大凶作では、数万世帯の農民が餓死するか離村したといわれる。 帝政ロシアにおける農民には、国有地農民、修道院農民、貴族領農民などがあったが、いずれも農奴制の下におかれていた。農民は移動の自由のみならず結婚の自由ももたず、領主裁判権に服さなければならなかった。農民たちが町に出かけたり、他の地方に出稼ぎに行く場合には、必ず領主、またはその代理人に申し出る義務があり、その許可が必要とされた。許可が得られた場合でも国内旅券をつねに携行しなければならなかった。農奴は、娘を嫁に出す際にも領主の承認が必要であり、承認が得られない場合もあった。領主裁判権は殺人などの重罪をのぞき、領主または領地管理人が審判し、判決を下す制度であり、農民たちは些細なことで鞭打ち刑や罰金刑に服さなければならなかった。 このようにロシア農奴制は、人格的支配がともなう社会制度としてつづいてきたのであり、その点で最も苛酷な状況にあったのが貴族領農民であった。しかし、国有地農民といえども、皇帝の一存で国有地が貴族に下賜されることは珍しいことではなかった。農奴制下のロシア農民はおしなべて人格的な無権利状態にあり、ときに領主の過度の要求や苛政、虐待に対し、彼らの殺害におよんだケースもあった。農民側の抗議の方法は多様で、嘆願や一揆というかたちをとることも多かったが、ロシアにおいては特に、その広大な国土を反映し、貧困、凶作、徴兵拒否などを理由に故郷の村から逃亡するケースの多かったことが特徴的である。1727年から1741年のあいだに逃亡中であった農民は32万7000人にのぼる。極端なケースでは、村全体が領主のもとを去ることさえあったが、こうした場合には領主側もなすすべがなかった。ただ、ロシア農民の生活を大きく規定したのは一面では長く寒い冬、短い夏、そして春や秋に頻繁に訪れる冷えだったのであり、その点において単に「抑圧と抵抗」のみに還元されない要素もあった。今日では領主側の温情主義に注目する新しい研究もあらわれている。また、このころ、農村社会では「土地割換」という世帯の労働力の多寡に応じて毎年耕作地を分配しなおし、村単位に課される人頭税や地代の負担に連帯して応じる独特の土地利用慣行が広がっていった。兵役も、村の自治的な会合において貧農や大酒飲みなどに押しつけられるケースが多かった。
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