「ロシア初の交響曲」
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「交響曲第1番 (リムスキー=コルサコフ)」の記事における「「ロシア初の交響曲」」の解説
バラキレフは「五人組」の指導者として、アントン・ルビンシテインやその他の西欧派の作曲家によるドイツ流の交響楽と一線を画すべく、東方風の主題や和声の利用を自作に用いるように同人に呼びかけていた。ルビンシテインが1841年に《交響曲第1番》作品40、そして1851年に《交響曲第2番「大洋」》作品42を作曲していたにもかかわらず、リムスキー=コルサコフがロシア民謡やオリエントの旋律を《交響曲 第1番》に用いたからというので、ウラディーミル・スターソフらの民族主義者はこの作品を、(ロシア人による「最初の交響曲」と「交響曲第1番」という)二重の意味をこめて「ロシア初の交響曲」と呼んだ。本作のオリエンタルな旋律は、バラキレフがカフカスで採譜したものである。「五人組」の同人ツェーザリ・キュイは、1863年に、海軍の配備で出航中のリムスキー=コルサコフに宛ててこのように書き送っている。「この交響曲は好い曲だ。われわれは数日前にバラキレフの家でそれを弾き、スターソフが大変喜んだ。これは本当にロシア的だ。ロシア人にしか作曲できないような音楽だ。ドイツ気質の澱んだ特徴がいささかも見受けられないのだから。」この曲の成功により、リムスキー=コルサコフの作曲家としての道が定まったのである。
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