尾崎豊
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略歴
- 生前、活動期の詳しい経歴はHeart Of Klaxonも参照。
- 1965年(昭和40年)
- 1974年(昭和49年)
- 小学3年生の時に初めて詩を書く。タイトルは『雨』[44]。
- 1976年(昭和51年)
- 1980年(昭和55年)
- 1981年(昭和56年)
- 1982年(昭和57年)
- 1983年(昭和58年)
- 1984年(昭和59年)
- 1985年(昭和60年)
- 1986年(昭和61年)
- 1987年(昭和62年)
- 1988年(昭和63年)
- 1月11日、覚せい剤取締法違反で起訴[1]。
- 1月21、22、25、26日に予定されていた初の日本武道館公演が幻に終わる[注釈 19]。
- 2月22日、東京地方裁判所刑事11部第531号法廷にて、懲役1年6か月・執行猶予3年の判決が下される[48][注釈 20]。午後1時30分ごろに東京拘置所から釈放[注釈 21]。
- 5月12日、一般女性と入籍[1]。
- 6月22日、フジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に最初で最後のテレビ出演[1]。同日に発売された新曲「太陽の破片」を歌う[1]。
- 9月1日、度重なる発売延期を乗り越え、4枚目のオリジナル・アルバム『街路樹』を発売。
- 9月12日、東京ドームで一夜限りの復活ライブ「LIVE CORE」を行い、5万6,000人を動員する[1]。
- 1989年(昭和64年、平成元年)
- 1990年(平成2年)
- 1月、所属事務所をデビューから在籍していたマザーエンタープライズから、浜田省吾の在籍するROAD & SKYに移籍する[1]。
- 10月21日、レコード会社を再びCBS・ソニーに移籍[1]。
- 11月15日、5枚目のオリジナル・アルバム『誕生』(2枚組)を発売[1]。
- 12月19日、個人事務所・ISOTOPE(アイソトープ)設立[1]。
- 1991年(平成3年)
- 1992年(平成4年)
- 1993年(平成5年)
- 5月10日、生涯最後のライブを収録したライブ・アルバム『約束の日 Vol.1』『約束の日 Vol.2』が同時リリースされる。
- 1994年(平成6年)
- 1月21日、シングル「OH MY LITTLE GIRL」がリリースされる。フジテレビ系テレビドラマ『この世の果て』の主題歌に使用され、107万枚を売り上げ、シングル初にして唯一のミリオンセラーを達成[注釈 22]。
- 1995年(平成7年)
- 4月25日、四回忌にあたるこの日、10代のころのアルバムを収録したボックス・セット『TEENBEAT BOX』がリリースされる。
- 1996年(平成8年)
- 3月27日、未公開音源集『無題 (WHITE ALBUM)』がリリースされる。
- 9月30日、初のベスト・アルバム『愛すべきものすべてに』がリリースされる。
- 1997年(平成9年)
- 11月15日、ライブ・ベスト・アルバム『MISSING BOY』がリリースされる。
- 1999年(平成11年)
- 2001年(平成13年)
- 4月28日、公式に初の映画音楽起用となった仲間由紀恵主演の『LOVE SONG』で「OH MY LITTLE GIRL」「Forget-me-not」が主題歌として起用される。須藤晃が音楽監修を務め、ソニー・ピクチャーズ エンタテインメントが配給している。
- 2002年(平成14年)
- 4月、『週刊少年マガジン』誌上で「尾崎豊物語」が掲載される。
- 2004年(平成16年)
- 3月24日、13回忌として企画されたトリビュート・アルバム『"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』『"GREEN" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』の2枚が同時リリースされる。
- 10月27日、ボックス・セット『TEENBEAT BOX 13th MEMORIAL VERSION』がリリースされる。
- 2006年(平成18年)
- 2007年(平成19年)
- 4月25日、CD-BOX『71/71』リリース。生前に発売されたオリジナル・アルバム6作品をすべて収録し、4枚目のアルバム『街路樹』に「太陽の破片」「街角の風の中」を加えた『街路樹+2』を特別収録している。
- 2008年(平成20年)
- 4月16日、ベスト・アルバム『WEDNESDAY 〜LOVE SONG BEST OF YUTAKA OZAKI』と『SATURDAY 〜ROCK'N'ROLL BEST OF YUTAKA OZAKI』が2枚同時リリースされる。
- 2009年(平成21年)
- 4月18日〜5月5日、尾崎の楽曲から生まれた青春群像劇『MISSING BOYs 〜僕が僕であるために〜』が赤坂ACTシアターにて上演される。
- 4月22日、オリジナル・アルバム6枚とベスト・アルバム『愛すべきものすべてに』がBlu-spec CDで再リリースされる。『街路樹』はシングル「核 (CORE)」と「太陽の破片」のそれぞれA面・B面収録曲を加えた2枚組スペシャルエディションとして発売された。
- 4月25日、TOKYO-FM(JFN38局)にて『KDDI presents 尾崎豊メモリアルスペシャル「BIRTH 〜From 1991 to 2009〜」』がオンエアされる。番組は、1991年5月20日に横浜アリーナで行われたツアー初日の初公開音源に加え、須藤晃によるエピソードで構成された。
- 同日、auの音楽配信サービスLISMOにて、全71曲の着うた配信が開始。同CMに「I LOVE YOU」が使用される。映像は1985年1月12日、日本青年館で行われたライブの一編である[注釈 23]。このCMで尾崎自身の映像がテレビCMに初めて使われる。
- 2011年(平成23年)
- 3月21日、テレビ東京系列にて彼の半生を描いたドラマ『風の少年〜尾崎豊 永遠の伝説〜』(尾崎役は俳優の成宮寛貴)が放映される。
- 2012年(平成24年)
- 9月、20回忌にあわせて東京・原宿のラフォーレミュージアムで特別展「OZAKI20」が開始。その後、10月には名古屋のマツザカヤホールで、12月には大阪の心斎橋BIG STEPで、翌2013年3月にはS-PAL福島店、4月に横浜のみなとみらい駅特設会場で開催[52]。
- 2013年(平成25年)
- 3月23日、東京ドームでのライブを完全収録した「LIVE CORE 完全版〜YUTAKA OZAKI LIVE IN TOKYO DOME 1988・9・12」が発売される。
- 11月27日、デビュー30周年を記念してベスト・アルバム『ALL TIME BEST』が発売される。
- 2020年(令和2年)
- 1月3日、佐藤輝監督による映画『尾崎豊を探して』が公開される。
- 2022年(令和4年)
- 3月23日、コンサートツアー『YUTAKA OAZAKI TOUR '91 "BIRTH"』の音源が収録された『LAST TOUR AROUND JAPAN YUTAKA OZAKI』が発売され、同日から没後30年企画として、『OZAKI30 LAST STAGE 尾崎豊展』が東京の松屋銀座から、4月13日には静岡伊勢丹、同月29日から福岡のUNITEDLAB、9月7日から大阪の大丸ミュージアム、11月25日からそごう広島店、12月21日から埼玉のところざわサクラタウン、2023年3月17日から富山市民プラザアートギャラリーで開催され予定されていた兵庫県神戸での開催は中止となったが全国を巡回した[53]。
注釈
- ^ 尾崎の所属事務所『マザー・エンタープライズ』およびレーベル『MOTHER&CHILDREN』の社長。
- ^ 当時、1ヶ月にも及んで、民放のみならずNHKも含めたテレビ各局は連日のように尾崎の特集を組んだ。
- ^ 月給は2万円で、尾崎の担当区域は180部だった[16]
- ^ 実際に当時は「卒業」の歌詞に影響されて、学校の校舎の窓ガラスを割るといった事件が発生した[27]。
- ^ 参列者数は3万8000人、4万人、5万人、5万3000人などと言われている。
- ^ それぞれ、美空ひばり、忌野清志郎の追悼式は4万2000人、坂井泉水の追悼式は4万100人、吉田茂の国葬は4万人という規模であった[41]。
- ^ 防犯上、警備上の理由のため、実際にはこの墓地には尾崎の遺骨は納骨されていない。
- ^ 尾崎豊の父が躰道の前身である玄制流空手を習っていた影響も受けている。
- ^ のちに、Mr.Childrenらを生んだ小林武史が優勝している。
- ^ a b ファーストアルバム『十七歳の地図』に収録されている『街の風景』の原曲。
- ^ 原宿音楽祭での「町の風景」は平成21年(2009年)3月30日に放送されたTBSラジオのラジオ番組「kakiiin尾崎豊」にて公開されている。
- ^ 「十七歳の地図」の原曲。尾崎がつけたタイトルは「野良犬の道」。
- ^ オーディションは前日の10月10日に行われたが、尾崎はオーディションを受けなかった。翌日、CBSソニーのプロデューサーである丸沢和宏に説得され、オーディションを受けた[46]。
- ^ 正確には「Scrambling Rock'n'Roll」の間奏中。
- ^ その後もなんとかスタッフに支えられステージに這いつくばりながらセットリストのすべての曲を歌い切った
- ^ 大阪球場でのライブはライブツアー「Tropic of Graduation Tour」時に開催されたものであるが当時のツアーパンフレットには日程が記載されておらず、大阪球場での公演2日前の8月23日でツアーは終了する予定であったがツアー開始初日の5月6日に関係者の間で会見を行い公表した。チケットは発売後に即日完売したことからも当時、尾崎の人気が一気に高まっていたことがうかがえる。
- ^ 最初にニューヨークへ渡ったのは1月で、その後は行ったり帰ったりを繰り返し、6月から長期滞在していた。
- ^ 同社はのちにアルファ・ムーンと合併しエム・エム・ジーとなり、その後イーストウエスト・ジャパンとなる。
- ^ 日本武道館でのライブは尾崎の夢だったが、同じく日本武道館での公演がプログラムされた「放熱への証」ツアーも尾崎の急死によって中止に終わり、結局叶うことはなかった。
- ^ 裁判官は尾崎に対して「人気歌手として社会に与えた影響は大きい。仕事上のスランプは理解できないわけではないが、法律が厳禁している覚せい剤の使用は決して許されるべきではない。両親が歌手生命が絶たれても警察に通報して救おうとした熱意などもあり、もう一度更生の機会を与える。一日も早く立ち直るように」と話した。また尾崎は判決が下されるまで実刑を信じていたという[49]。
- ^ 釈放時、右手には手垢が滲みた村上春樹の「羊をめぐる冒険」を持っていた[50]。またファンらが彼の出所を祝うかのように「存在」や「卒業」を歌ったという[51]。
- ^ 2013年現在、シングルではこのCDの売り上げが尾崎史上最高となっている。
- ^ このライブの模様は映像作品『OZAKI・19』に収録
- ^ 結局「TOKYO ROCKFEELING FESTIVAL」は尾崎以外の出演者で行われた。
- ^ 岡村とは1987年8月6日の広島平和コンサート「ALIVE HIROSHIMA '87」で共演し、岡村の楽曲「Young Oh! Oh!」を岡村とともに歌っている。
- ^ 北勝海とは亡くなる前々日の1992年4月23日に東京・六本木のスナックで知り合っている。その際に尾崎は北勝海に「次の僕のコンサート必ずきてくださいよ。チケット送りますから。」と話したという[59]。
- ^ RED WARRIORSや大友康平(HOUND DOG)らは尾崎と同じ事務所であるマザーエンタープライズに所属していた。
- ^ 現行教科書11種類のうち3種類の本に記述があること。
- ^ 巻数は『〜℃』で表されていた。
- ^ 3℃は1992年4月に発行され、その直後の4月25日に尾崎は急死した。
- ^ 浜田は事務所の名や曲名などに「ROAD」を多用している。
- ^ 尾崎は自分のイメージを鋭く尖ったナイフのような『Egde』だと解釈していたことによる。
- ^ 主にライブ映像を中心として構成されている。
- ^ 今番組内で放送された「ハイスクールRock'n'Roll」のMCでブルース・スプリングスティーンに関する話をしている。
- ^ 既に2010年に開催された音楽イベント「フジロックフェスティバル」において公開されていた。
- ^ この番組は無料放送として放送された。
- ^ 「誰かのクラクション」は尾崎がパーソナリティを務めた唯一のレギュラー番組で、1985年10月から1986年3月、1986年10月から1987年3月にオンエアされていた。番組ディレクターは加藤与佐雄。
- ^ アマチュアバンドの前座として参加。
- ^ 「核 (CORE)」の原曲。
- ^ 白井貴子の前座として参加。
- ^ 当初はナゴヤ球場にて予定されていたが、会場の使用許可が下りず、大阪球場での開催となった。
- ^ 一部の関連本で、大阪球場での「Scrambling Rock'n'Roll」はプログラムからカットされた、とあるのは誤り。
- ^ ツアー途中に尾崎本人の急病により、ツアーが中断している。
- ^ 4日後の9月28日に公演会場である新潟県民会館へ入るも、ライブ前に倒れ、ツアーは中断されたため、結果的にこの日が本ツアーの最後の公演となった。
- ^ 多数の関連書では「15の夜」がプログラムされておらず、「十七歳の地図」となっているが、両曲ともに演奏されている。
- ^ 「・ism」が演奏された公演もあり
- ^ 6日の出演は予定になく、急遽出演したため「シェリー」、「僕が僕であるために」のみを演奏している。
- ^ 一部の関連本では、アンコールに「15の夜」がプログラムされているが誤り。
- ^ 2012年12月1日公開。
- ^ 尾崎本人が急死したため全公演中止となった。
- ^ 後に、未収録写真を76点を追加して「FREEZE MOON+」として再発売されている《2009年、春日出版、ISBN 4863211546》。
出典
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- ^ “尾崎豊の遺書公開に実父 「本当の遺書?」「自殺じゃない」”. NEWSポストセブン. (2011年11月18日). オリジナルの2013年10月23日時点におけるアーカイブ。 2014年3月15日閲覧。
- ^ アイソトープによる公式サイト
- ^ 尾崎豊 デビュー30周年記念日 -THE DAY- | WOWOWオンライン
- ^ 「私たちの街でコンサートを!」『月刊PATi-PATi 1986年8月号』第2巻第9号、CBS・ソニー出版、1986年8月9日、160頁。
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