大山倍達 生涯

大山倍達

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 03:01 UTC 版)

生涯

生い立ち

父・崔承玄(チェ・スンヒョン、최승현)と母・金芙蓉(キム・ブヨン、김부용)との間に、6男 1女の第4子として当時日本領であった朝鮮全羅北道金堤市で生まれた。大東亜戦争終結に伴い日本が朝鮮半島の領土から撤退し、1948年に同地に大韓民国が建国された後は朝鮮籍[注釈 1]となったが、1968年(昭和43年)に日本国籍を取得し通称名大山倍達を本名として登録した。

一時期、崔猛虎(チェ・メンホ、최맹호)、大山猛虎、大山虎雄、崔倍達[注釈 2](チェ・ベダル、최배달)などを名乗っていた事もある。大山の姓は、書生として住み込んでいた大山家(大山茂大山泰彦の実家)の恩義から名乗ったとする説があり、日本名にも使った「倍達」とは朝鮮(韓国)の雅名の一つ(そのため朝鮮民族は「倍達の民」「倍達民族」を美称として使うことがある)。

幼少期は満州国朝鮮半島で育ち、16歳で日本一の軍人を志し、山梨県の山梨航空技術学校〈現・日本航空高等学校日本航空学園)〉に入学。

    • 日本航空高校50周年記念アルバムにも昭和17年卒業写真が現存している。

きつい肉体労働でアルバイトをしながら学校へ通い、当時難関であった陸軍士官学校へ入学する為の受験勉強も少ない時間の中で行うという苦学生の身であった。

この当時の大山の格闘技のベースは朝鮮時代の中学で習っていたボクシングであった。

昭和15年当時大山が下宿していた家の娘で、当時14歳だった女性の証言
「いつもボクシングのグローブを持って、拳闘(ボクシング)のことや本のことばかり考えてるような感じでしたね。(中略)庭でグローブをつけてボクシングの型をしたり、トレーニング。終わってから食事の後よくいなくなる。多分、喧嘩でしょう。(中略)だって傷もあちこちにあるし......。あと、虎雄さん(大山)は喧嘩が強くて有名だったんですよ。当時としちゃ、あんな大きい人はいなかったですから。近所の人も喧嘩を見たってよく聞きましたよ。」[6]

空手

1943年(昭和18年)6月に空手道松濤館流船越義珍に師事、その後山口剛玄剛柔流を主に学ぶ。山梨少年航空技術学校卒業後に陸軍士官学校を受験するも失敗し挫折する。だが、当時拓殖大学学生であった木村政彦が、柔道界最高の栄誉であった天覧試合優勝を成し遂げた事に感動し、同じ拓殖大学に入学したとされる。同大学では司政科に在籍したとされ、政治家を志したらしい。

石原莞爾主催の東亜連盟協会に参加する等の活動をするも、昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争が勃発。徴用工として千葉県館山郊外の飯場で軍関連の土木工事に従事。終戦前に海軍の「特攻隊」に志願したが終戦を迎えて出撃出来なかったらしいという逸話もあるがそのような事実はない(これは梶原一騎原作の劇画空手バカ一代』の主人公、大山倍達のキャラクター設定となっている)。 終戦直後の1945年に組織された在日朝鮮人による「健青」「健同」「民団」などの争いで、それらの団体の黒幕の一人である曹寧柱の直弟子である大山は組織間の衝突の際に、最前線に経って大人数相手の喧嘩を続けた。まだ若くすぐに腕力に訴える大山は当時の民族運動家の間では評判が悪かったという[7]

1946年4月に早稲田大学高等師範部体育科に合格し入学する。大山曰く「こう見えても私の頭はボンクラじゃなかったんだ」

【学部変遷】 早稲田大学高等師範部体育科 → 早稲田大学教育学部体育専修 → 人間科学部スポーツ科学科 → スポーツ科学部

    • 大山倍達はスポーツ特待生ではなく一般入試の学籍証明書が早稲田大学から発行されている)中退[注釈 3]


  • 【早稲田大学・学籍証明書】
    • 氏名〈崔永宜 (改姓届:1968年 (昭和43年) 大山倍達〉
    • 生年月日〈1923年 (大正12年) 6月4日生〉
    • 学部・学科・専修〈早稲田大学高等師範部体育科〉
    • 入学年月日 〈1946年 (昭和21年) 4月〉
    • 卒業・退学等年月日〈1948年 (昭和23年) 除籍〉

除籍の理由について大山は「学費が払えなかった」とか「学業以外にやりたいことがあった」等と答えている。

終戦後は千葉を中心に、日本の領土から離れた朝鮮半島の民族運動に参加したとする説もある。また、「山篭り」で空手修行に励んだともいう。1946年(昭和21年)6月に俳優の藤巻潤の実の姉である智弥子と結婚。このときの媒酌人は田中清玄。3人の女の子(留壹琴・恵喜・喜久子)をもうける。

空手日本一

1956年田園コロシアムで牛と戦う大山倍達。この戦いは1954年『猛牛と戦う空手』という映画に続く2回目の公開闘牛であった。

1947年(昭和22年9月)に京都で開催された戦後初の空手道選手権で優勝[注釈 4]

1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効以降は日本国籍を喪失し朝鮮籍となるが、引き続き日本で活動を続ける。 同年、プロ柔道の遠藤幸吉四段と共に渡米[8]。 全米各地で在米のプロレスラーグレート東郷の兄弟という設定(Mas. Togoのリングネーム)で空手のデモンストレーションを行いながら、プロレスラープロボクサーと対決したとされる。帰国後大山は、を素手で倒し(合計47頭、うち4頭は即死)[要出典]、その映像は映画『猛牛と戦う空手』1954年(昭和29年)として公開された[9]

極真会館設立

多くの武道家と交流し、また世界各国を巡りさまざまな格闘技を研究、空手の指導を行い、直接打撃制の空手(極真空手フルコンタクト空手)を作り出した。短期間ではあるが、1956年(昭和31年)に大東流合気柔術の吉田幸太郎から合気柔術とステッキ術も学んだ。その他、講道館柔道を曾根幸蔵九段に、ボクシングをピストン堀口にそれぞれ師事。

目白の自宅の野天道場、池袋のバレエスタジオ跡の大山道場を経て、1964年(昭和39年)国際空手道連盟極真会館を設立し、数々の名だたる弟子・名選手を輩出している。多くのフルコンタクト系各流派を生み出す元ともなった。

死去

大山倍達の墓(東京都文京区護国寺

1994年(平成6年)4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区聖路加国際病院で死去。豪快で情に厚い人物であったという。訃報を受けて、添野義二東孝など、既に極真を去った元弟子達も多数極真会館総本部に駆けつけ、その死を悼んだ。特に添野は「極真会館」という組織は除名されていても、大山とは私的に家族ぐるみでの交友が続いていたこともあり、「悲しいねえ…!」と人目も憚らず泣き崩れていた。

死亡直前の4月19日立会証人5人の下で松井章圭を後継者とする旨などとした危急時遺言が作成されたが、公証役人がいなく、妻の智弥子に知らされていなかったことから大きな確認裁判へと発展。裁判ではこの危急時遺言について、立会証人の中に遺言によって組織上の地位を得る利害関係者がいたこと、その利害関係者が立会証人として遺言内容の決定に深く関わったことなどから、大山が遺言者として遺言事項につき自由な判断のもとに内容を決定したものか否かにつき疑問が強く残ると判断されて、1995年4月に「遺言書は無効」と家庭裁判所に却下された。

大山には、「韓国にも戸籍があり妻と3人の息子がいる」と言われたが、韓国の戸籍とされた書類は生年が違うことから、「同一人物ではない」と東京法務局と裁判所で認定された。 なお、韓国の戸籍では1922年生まれとなっており、実際の生年は通例の1923年ではなく、1922年と推定される資料もあるが、死亡時の裁判にて否定されている。

大山は、多額の財産を残したものの、極真会館を法人化するなどの措置は一切とらず、その財産が、誰のものかという点が曖昧になっていたため、裁判沙汰になってしまっている。








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