大山倍達とその家族
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大山倍達の家族とも親密な関係を保ち、信頼されていた。大山が亡くなった時に総本部で遺族が記者会見を行なった際、取材していた家高康彦は、山崎が遺族と同席していたのを見ている。1年後、極真会館の分裂騒動が進んでいた1995年4月7日に「遺言書は無効」と家庭裁判所の審判が下った。同月13日に夫人の大山智弥子と次女の恵喜が記者会見で声明を発表し、恵喜は「財団法人極真奨学会理事長はやはり武道家として恥ずかしくなく、人間性が豊かで人を引きつける魅力があり、スポンサーを探せる方が理想です。そして遺族として少なくとも私とか妹(三女の大山喜久子)の理想の方が、今ここにいらしている。その方は山崎照朝さんなんです」と就任を要請したが、山崎は後日、丁重に辞退した。大山の命日が近づくと、大山が葬られている護国寺へ遺族と共に墓参りしている。各派閥の大会にそれぞれ招待されるが、記者席から観戦するなど分裂騒動には距離を置いている。
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