大山倍達 人物

大山倍達

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 03:01 UTC 版)

人物

日本に渡る前の朝鮮時代、中学入学後に、中退するまでの三年間はボクシングを習う。その後1939年、釜山にやって来た曹寧柱の講演に感動して、その場で曹に日本行きを直訴、同年の暮れに渡日して曹のもとで剛柔流空手を学ぶ[10]

ウエイトトレーニングに励む28歳の大山倍達。

青年時代より、日本ボディビル界の祖と言われた若木竹丸の著書「怪力法」に影響を受け、戦後実際に若木よりウエイトトレーニングの指導を受けた。発達した胸筋と背筋のためレントゲン撮影では薄く影が出来るほどであったといわれる。またパンチ力の増強のために懸垂が有効と聞けば、最後は片手懸垂を連続20回こなすほど腕力があった。

その反面、若い頃の大山の空手は、荒々しく実戦を重視しすぎていたため、巻き藁突き・サンドバッグ組手稽古・ボディビルの鍛錬ばかりして、型の稽古を嫌い、たびたび先輩方から苦言を受けるほどであった。

大山に黒帯を允許した松濤館の船越義珍。1年3カ月での異例のスピードだった

空手修行時の大山を知る空手関係者は異口同音に「彼は力は強いし、組手や実戦は強いが型は下手」と語っていた。ただし、壮年期から晩年にかけて好んで剛柔流の「転掌」や「鉄騎」を演じるフィルムが現存し型稽古を見ることができる。第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会において、最後の演武は創作型「円転掌」であった。

『空手バカ一代』の爆発的人気により、伝説的存在として「大山神話」が広まったが、実際のところ戦後の一時期においては、敗戦という心の痛手のために、暴力団の用心棒稼業を行ったり、娼婦といちゃつく連合国軍の兵士を叩きのめして回り、指名手配されるなどの荒れた生活であった。連合国軍の憲兵隊から追われる身となった大山は一度逮捕されるが、すきを見て脱走。衆議院議員であった小沢専七郎の助力で身を隠すために仕方なく身延山、それに引き続き清澄山に山篭りすることとなった。

松濤館の船越義豪から1年3か月で初段を得て以降、剛柔流山口剛玄や曺寧柱(書籍における日蓮宗僧籍“曺七大師”)、大東流合気柔術の吉田幸太郎、朝鮮YMCAからアマチュア・ボクシング、ピストン堀口からプロボクシング(実際地方のボクシング興行で試合した経験もあり)、曾根道場での講道館柔道(四段)、若木竹丸井口幸雄などからボディビルや重量挙げ金城裕から沖縄空手との交流や空手界の古老との仲介役になってもらったりと、当時としても多岐に渡る格闘技武術関係者との親交を深める。

柔道家の木村政彦。大山は木村とも親交があった

また、武術修行のみならず、船越門下では実力随一であった船越義珍の三男「義豪」を見舞ったり、本部朝基の弟子、山田辰雄(書籍では由利辰朗)、太気拳澤井健一、玄制流空手、躰道祝嶺正献、虎殺しの空手家である山元勝王などとも親交を結んでいた。

合気道家の塩田剛三は拓殖大学の先輩にあたるとされ、澤井健一と共に養神館本部道場で稽古を見学したこともある。拓殖大学には先輩とされる、木村政彦も居る。大山は若い頃この木村の強さに惹かれ柔道の試合を観戦しているが、晩年「木村の全盛期ならヘーシンクルスカも3分もたないと断言できる」と言っている。

この木村政彦との戦後の深い親交については『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也)に詳述されている。この作品は、木村政彦vs力道山戦で木村が力道山のブック破りでKOされた時にリングサイドにいた大山を克明に描写している。木村がリングに倒れた時、大山はその場で立ち上がってリングに上がろうとするが、周りの人間が必死に止めている。また増田は、柔道側からの新視点による綿密な取材から「大山は間違いなく日本屈指のストライカー(打撃格闘家)だった」と断言している。

極真会館初代会長の佐藤栄作首相。大山は政治家などとも親交を持っていた。

著名な政治家とも親交があり、極真会館の初代会長を衆議院議員の佐藤栄作(極真会館設立の3か月後に首相に就任)、副会長を衆議院議員の毛利松平が務めた。衆議院議員であった辻兼一や同じく衆議院議員の小沢専七郎は、戦後の荒れた時期、大山の庇護を行っていた。

他に親交があった人物としては漫画原作者梶原一騎が挙げられ、双方が互いに精神的・物質的に大きく影響し合った[11]。『空手バカ一代』の制作などを通じ大山は梶原とその実弟である真樹日佐夫それぞれと義兄弟の契りを結ぶ[11]など親交を深めていくが、やがて映画『地上最強のカラテ』の利益分配をめぐるトラブルなどから関係が悪化し[11]、義兄弟関係も絶えることになる[11]。ただ晩年は梶原に対する気持ちは氷解していたようで入院中の梶原に対し匿名で励ましのハガキを出すなどしていた[12]。その他に親交のあった作家としては森川哲郎が挙げられる[11]

1991年(平成3年)の第5回全世界選手権におけるアンディ・フグ - フランシスコ・フィリォ戦で、試合終了の合図が入ったが、フィリォが構わず左上段回し蹴りをして、アンディ・フグが失神したのを見て「止めが入ってたとはいえ、倒された者は勝者にふさわしくない」とし、フグの反則勝ちにはせずフィリォの一本勝ちを認めた。

大山は極真会館の門弟にとっては何者にも代え得ない絶対無比のカリスマであった。それゆえに1994年(平成6年)の大山の死は、上位クラスの指導者や大山の遺族などの間で“極真”の主導権や方向性・商標、そして大山の後継者の座を巡っての数多くの諍いが繰り広げられる直接の引き金となった。かくて、大山が作り上げた極真空手は内紛と分裂、さらには大山の“極真”の正当後継を自認する団体の乱立で現在に至るまで揺れ続けている。

一方で極真会館(松井館長)の機関紙、ワールド空手の編集を請負い、大山倍達正伝などの著作がある作家小島一志は大山を「劇画や著書の内容は95%が虚飾であり何もかも嘘で固めた人生を送ったのが大山倍達という人間の素顔」[13]と評し、小島が聞いたとする黒崎健時の大山倍達に対する評価として「何一つ師らしいことをしていない」「喧嘩ができない最低の大法螺吹き」「最低の人間」と記している。なお黒崎は件の発言の前に「空手では私より強くても」と前置きしている[14]。また、全盛期の大山の強さを知らない入門したての東孝に、「(大山)館長は若い頃強かったですか?」と聞かれ「強かったよ。俺が勝てなかったんだから」と答えている[15]。なお大山茂は創生期の極真会館で大山倍達は本気で弟子の中段を突くことはKO必至のために避けていたと証言する(後述)。








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