創価学会 日蓮系教団との関係

創価学会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 02:47 UTC 版)

日蓮系教団との関係

日蓮正宗との関係

日蓮正宗傘下の時代

かつて創価学会は日蓮正宗の在家の信徒団体であったが、戸田が布教の利便と宗門である日蓮正宗を外護するため、宗門に宗教法人格の取得の許可を願い出た。そこで日蓮正宗は「新規に入会した会員は信徒として末寺に所属させること」、「(日蓮正宗の)教義を守ること」、「仏・法・僧の三宝を守ること」を条件に承諾した[109]

昭和52年路線

1977年(昭和52年)1月の第9回教学部大会において、池田は寺院の意義について、修行者が集い、仏法を研鑽し、布教へ向かうための道場・拠点と位置付け、その本義からして、「創価学会の本部・会館、また研修所もまた「近代における寺院」というべき」と語った[138]

これに対し、宗門=日蓮正宗側は「池田の主張は教義からの逸脱である」と批判し、批判を受けて創価学会は謝罪した[139]。さらに、山崎正友が独自に宗門若手僧侶を扇動し、批判活動を行わせた。山崎は創価学会への恐喝罪により懲役3年の実刑判決を受けている[140]

日本基督教団所属のキリスト教徒として創価学会の立場を支持する元外交官作家佐藤優によれば、創価学会と日蓮正宗の対立の「背景には、僧侶が『上』、一般信徒は『下』とする宗門の宗教観と、そのようなヒエラルキーを認めない民衆宗教である創価学会の基本的価値観の対立があった。」とする[141]

学会幹部が日蓮正宗総本山大石寺に登山を行う事で一応は収まったものの、その後も日蓮正宗(宗門)僧侶や檀徒による批判は続いた。

正信会との対立、日顕との同盟関係

1979年(昭和54年)7月22日に管長細井日達が遷化(死去)。日達は生前、後継者を指名していなかった。67世法主として阿部日顕が登座すると学会を含めた日蓮正宗内は混乱に陥る。

学会に批判的な僧侶が「正信会」を結成、山崎正友も学会を退会して正信会に参加した。これに対し日顕は学会に友好的に接し、学会も日達から日顕に血脈相承が行われたと指導、池田も宗門を擁護する立場を取った。その結果、宗務院は正信会僧侶の大量処分に踏み切り、ついには批判派僧侶のほとんどが日蓮正宗から追放された。

後述する宗門との対立後は、池田や学会は日顕が受けたのはあくまでも内証(内定)であって、正式な儀式は行われておらず、後継指名は成り立たないと解釈を変更している。

日蓮正宗との対立・決別

正信会問題では共闘した日顕との関係は悪化に向かう。1990年平成2年)7月17日、日蓮正宗との連絡会議の席上、学会側が宗門や法主を批判して席を立つ[142][注 12]。同年11月16日、第35回本部幹部会における池田のスピーチに対し、日蓮正宗側は法主や僧侶を軽視するものだとして学会に説明を求める「第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」文書を送る[142]

「お尋ね」文章の内容は、池田が僧侶を批判した、四箇格言を否定した、親鸞を好意的に評価した、外道(仏教以外)の歌である『歓喜の歌』を評価した、などとして批判する内容で[122]、これに対し、学会側は「お尋ね」文書に対する「お伺い」文書を送付し、日蓮正宗側が自分たちを誹謗・中傷しているとして回答を拒否した[142][SG 46][注 13]

これを受け、日蓮正宗は規約を改正し、1984年1月に再任されていた池田の法華講総講頭の役職を解くことにした[142]。1991年、創価学会は『聖教新聞』紙上等において日蓮正宗へ反論を行う[142]。同年11月、日蓮正宗は「創価学会」と「創価学会インタナショナル」(SGI)を破門[142][注 14]。創価学会側はこの破門以降、日蓮正宗を「日顕宗」(「日顕宗(日蓮正宗)」の表記もあり)と呼称し、批判している。

一方で、田原総一郎は、この対立の背景として、日蓮正宗の法主である日顕が先祖の墓を他宗の禅寺に建立していたことが判明したり、異性やカネにまつわる僧侶の醜聞が伝えられたりするなど、多くの学会員が宗門に対して不満を持つようになったのではないか、と言及している。[143]

創価学会と日蓮正宗の決別について、佐藤優は、世界広宣流布の観点から、創価学会がこれ以上、「宗門のくびきの下に置かれることは非現実的」[144]とし、聖ウルスラ学院(カトリックミッションスクール)理事長の梶田叡一は、日蓮正宗による破門の内実は、「権威的で形骸化した宗門によってそれまで散々蔑まれてきた学会員の魂が、ようやく解放された[注 15]」としている[145]

シアトル事件

1992年(平成4年)6月、『創価新報』・『聖教新聞』に「日顕が1963年(昭和38年)に法務で米国ワシントン州シアトルに出張した際に、現地の売春婦と料金トラブルを起こして警察に通報され、身柄を拘束された」、「現地在住の学会員、ヒロエ・クロウが保釈手続きを行った」として、日顕を痛烈に批判する記事が掲載された。日蓮正宗側はそのような事実はまったく存在しないと否定し[注 16]、日米両国で訴訟が行われた。また、この報道は創価学会や日顕と敵対する正信会・顕正会の機関紙でも報じられた。

偽造写真事件

破門後の1992年(平成4年)11月、学会は機関紙『創価新報』に、日顕が芸者と戯れる写真を掲載。日蓮正宗との訴訟に発展した。地裁の判決では、学会側が編集過程において写真をトリミングカット等したことを偽造と認定し、賠償請求を命じた。[146]しかし、学会側が控訴した高裁では、学会側による写真偽造を改めて認定したものの、原告に日顕の氏名が無い事を理由に原告が求めた損害賠償は認められなかった。[147]日蓮正宗側は上告するも、最高裁で棄却された。

コーヒーカップ裁判

1992年(平成4年)、神奈川県川崎市中原区にある日蓮正宗持経寺に息子の遺骨を預けていた創価学会員夫婦が、同伴した数人の学会幹部とともに息子の遺骨を受け取りに訪れた際、本堂で夫が遺骨を受け取り退出。しかし、5分後に再び本堂を訪れ遺骨骨壷ではなくコーヒーカップに入っていたと主張した。その後の裁判では、数々の証言から創価学会員は敗訴し主張は退けられた。

日蓮正宗住職交通事故死

1994年(平成6年)7月、北海道内で日蓮正宗住職の運転する自動車と学会員の運転する自動車が正面衝突する交通事故が起き、住職が死亡、学会員が重傷を負った。現場検証で住職の全面過失と認定されたが、週刊新潮など一部週刊誌が交通事故は創価学会によって仕組まれたものとする内容を掲載。後に事故の当事者である学会員が週刊新潮を提訴、最高裁は週刊新潮の敗訴を言い渡した。

池田大作に対する民事訴訟

1996年(平成8年)、自らの金銭借款が原因で北海道創価学会の幹部を解任された女性が、池田大作を相手取って起こした訴訟。その後、裁判所は女性側の主張が悉く信用できないとした上で、「訴権の濫用」として訴えを却下した[他 14]。 同年3月、池田大作にレイプされたとの告発手記を『週刊新潮』に掲載し、女性とその夫が池田を相手取り損害賠償請求の訴えを起こした。裁判所は女性とその夫が創価学会に「恐喝まがいの電話」をかけていた時のテープに注目し、判決文の中で「有無を言わせない強硬なものであり、その個性、人柄をうかがわせるに足るものあるばかりか、まさに恐喝まがいと評されてもやむをえない」と断じた。判決では「なにゆえにそこまでするのかについては、健全な社会常識からすると若干の疑問が残らないわけではないが、原告らの個性、人柄に由来するところが大きいとみるほかはない」と述べ、「訴権の濫用による却下」として訴えそのものが退けられた[148]。裁判所が「訴権の濫用」という明確な用語を使用して訴えを不適法とした例は、当時までの1000万件近い訴訟の中で10件余りであり、割合として「100万件に1件」という極めてまれな判決となった[149]。 訴えを起こした女性は「訴訟は夫婦と弁護士だけで決めた」と述べたが、作家の山本栄一は、手記発表・記者会見・民事訴訟の流れは、夫妻と『週刊新潮』記者・門脇護(現・門田隆将)、「創価学会による被害者の会」の幹部である日蓮正宗妙観講員との打ち合わせで立てられたシナリオに基づくものであった、と述べている[150]。 『週刊新潮』誌上において、山田直樹は「およそ5年に及んだ裁判は、なんと実質審理に入らないまま終結」と訴訟を振り返り[151]、「裁判を傍聴し続けた」という乙骨正生も「女性の訴えは時効であるとし、女性の夫の損害部分についても実質的な事実審理に入ることなく訴えを退けた」と記述している[152]が、一連の事件について当時の新潮社・佐藤隆信社長は作家・宮本輝を通じて「あのいかがわしい夫婦の訴えを、結果としてキャンペーン的に報道を続け、はからずも当時の宗門の反学会勢力の後押しとなってしまったことを遺憾に思う」「真実かどうかわからない段階で、あのような広告を何度も打ったことは、行き過ぎだったと思う」「あの夫婦のいかがわしさは、『週刊新潮』の編集部でも話題になり、果たして二人の言い分を記事にしていいものかどうかを懸念する声もあった」と述べた[148]

正本堂解体

破門から7年後の1998年(平成10年)、かつて創価学会が寄進した大石寺正本堂が解体される。日蓮正宗と創価学会の分裂を象徴する出来事であった。

池田大作本仏論論争

歴代会長の中でも、初代・牧口、第2代・戸田、第3代・池田の「三代会長」は、「広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の永遠の指導者である」と2002年(平成14年)の会則変更の際に定められた[批 1]。さらに、2016年(平成28年)11月7日に施行された改正会則の第1章第3条2項として、「『三代会長』の敬称は、『先生』とする。」と加筆明記された[SG 92]。ただし、三代の会長個人を本仏である日蓮と同等またはそれ以上に崇め奉ることは認められていない。池田は過去に聖教新聞紙上で「私などを絶対視してはいけない。」と明言している[SG 93]。一方、日蓮正宗側は「池田本仏論」として批判している。

冨士大石寺顕正会との関係

創価学会と、顕正会の前身である妙信講は共に日蓮正宗内の一法華講という立場であったが、1970年代に学会が主導した大石寺正本堂の建立をめぐり、正本堂が日蓮の遺言(御遺命)にある「本門の戒壇」にあたるか否かの解釈で対立したのを皮切りに関係が悪化した。

妙信講は「非国立」の戒壇を認めない、と言うよりは「国家権力立」ないし「皇室立」でなければならない[批 2] とする解釈を顕正会に改名した現在も崩していないのに対し、学会と当時の宗門管長細井日達は「戦後民主主義体制の根幹たる主権在民の下では日蓮の指す国の概念は権力ではなく民衆である」[SG 94][153] という解釈のもと、正本堂落慶をもって御遺命は達成されたと宣言する。

その後日達の仲介で両団体が協議し「正本堂は御遺命の戒壇にはあたらない」とする学会理事長・和泉覚(当時)の談話を聖教新聞に掲載することで一応和解。この談話は落慶法要直前の1972年(昭和47年)10月3日付紙面に掲載され、法要には妙信講関係者も出席した。しかし、和解した後も妙信講は国家権力ないし皇室による「狭義の」国立戒壇建立という思想を放棄せず、学会中央本部に対するデモなどの実力行使に踏み切る。これを受け日達は1974年(昭和49年)8月12日付で妙信講を講中解散処分に付した。

日蓮宗との関係

創価学会を含む日蓮正宗系教団では日蓮宗を「身延派」と呼び、距離を置いている。

小樽問答

1955年(昭和30年)、日蓮正宗妙照寺所属の創価学会小樽班の会員と日蓮宗妙龍寺との間で論争が起こった。日蓮正宗及び創価学会と日蓮宗は幹部を派遣し、小樽市公会堂で公開法論に臨んだ[6]。法論では日蓮宗側がスピーチするたびに激しいヤジが飛び大荒れとなった[154]








固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「創価学会」の関連用語

創価学会のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



創価学会のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの創価学会 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS