マラッカ王国 領域

マラッカ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/14 19:07 UTC 版)

領域

マラッカ王国の直轄地は、マラッカを中心とするマレー半島西岸で西のリンギ(リンギ川)と東のムアル英語版(ムアル川)にはさまれ、内陸はグノン・レダンにいたる狭小な範囲にすぎなかった[40]。その縁辺に位置する、錫産地のシニョジュン(スンガイ・ジュグラ)、クラン、ブルナン、ミンジャン、ペラク、ブルアスなどの地域は、スルタンの臣下の領地であり、海上民が本拠を置いたシンガポール、ルバト、リアウ諸島リンガ諸島などとともに王国の属領とみなされた[40]。また、インドラギリ、ロカン、カンパル英語版シアク英語版トゥンカルなど、マラッカ海峡に面したスマトラ島東岸諸国およびマレー半島東岸のパハンは、マラッカ王国の属国であった[40]

社会

『スジャラ・ムラユ』の記述を元に復元されたマラッカの王宮

行政、官制

宮廷に参議院などの王の施政を補佐する機関は無く、王は家臣との合議で政務を執った[41]。病弱で政務を執るに支障をきたしている、あるいは国政に関心を持たない王は家臣に政務を一任していたが、精力的な王は国事の全権を掌握していた[41]。当初は王族が要職に就いて国王を補佐したが、スルタン・マンスールの治世に王族は要職から排除された[42]

王に次ぐ地位にある副王はパドゥカ・ラジャガと呼ばれたが、その地位に就いたのはラジャ・プテ一人であり、実質的に国王に次ぐ立場にあった官職はブンダハラ(宰相)であった[43]。官職はブンダハラ以外に、プンフル・ブンダハリ(財務長官と王室の家令を兼任)、ラクサマナ(海軍総司令官)、トゥムンゴン(警察長官)などがあり、これらの要職は王族あるいは建国に協力した海上民の子孫である貴族で占められた[44]。彼ら貴族はムントゥリ(あるいはマンダリ)と呼ばれ、マレー半島南海岸の領地の経営、マラッカ周辺の果樹園とマラッカ内にそれぞれ割り当てられた区域から徴収した税を収入としていた[44]。ブンダハラ、プンフル・ブンダハリは終身かつ世襲の職であり、特定の一族(ブンダハラはビンタン島のリアウ族出身の一家)から選ばれた[45]。ブンダハラはスリ・マハラジャの治世には既に設置されていたと考えられており[46]、彼らはムアルを領地とし、歴代の国王はブンダハラ家の娘と結婚するのが常であった[47]。ブンダハラの中で有名な人物として、アユタヤの攻撃を退けたトゥン・ペラク、王朝末期に活躍し国王と外国商人の双方から厚遇されたスリ・マハラジャが挙げられる。

マラッカの戦争においては戦争奴隷や外国人傭兵以外に、マラッカ外に居住するウルバランという武士騎士に例えられる身分の者たちも前線で戦った。彼らの中からウルバラン・ブサールという長が選出され、15世紀半ばにウルバラン・ブサールを補佐する役職としてラクサマナが創設され、ハン・トゥアー(en:Hang Tuah)が初代のラクサマナに任命された。その後ラクサマナが実質的なウルバランの指導者となり、ウルバラン・ブサールは実権を持たない名誉職となった[48]。ラクサマナは海戦以外においても権限を持ち、初代ラクサマナのハン・トゥアーは陸戦においても武功を立てたことが伝わる[49]。このようにラクサマナが強大な権限を持っていたのは、マラッカが海上国家と交易拠点の2つの役割を兼ね備えていたため、海軍の重要性が極めて高かったためだと言われている[49]

マラッカの開発にあたっては海上民が動員され、彼らに課せられる労役は部族の力と王国の支配下に入った時期によって異なった。リアウ族を中心とする有力部族は戦士として王に奉仕し、その中の特定の一族は高位の官職に就いた。部族の地位が下がるにしたがって労務は些細なものとなり、最下位の部族には王家が飼う犬の世話が課せられた[50]

スマトラ島東岸の領地、イルカン、ルパン、サンポカン、トゥンカルなどの港湾都市の支配については、マラッカから派遣された貴族が本来それらの都市を支配していた王に代わって政務を司っていたと思われる[51]。サンポカンを除いた都市の住民はオラン・スラットであり、彼らは主に漁業と海賊行為で生計を立てていた[52]>。それぞれの都市はマラッカに対して貢納の義務は課せられなかったが、代わりに戦時に兵力を提供する義務があった[53]

なお、彼らマラッカの官吏には月ごとに定額の給与が支給されておらず、賄賂と汚職がはびこる一因にもなった[54]

王権

国王の地位は原則として父から子に継承された[42]。マレー半島の先住民に対する、マラッカ王の王権は強力なものとは言えなかった[55]。マレー人の間の王と臣下の関係は双方の契約に基づく対等な関係であり[56]、時代が下るにつれて王権の絶対性が強調され、対等な関係は次第に専制的な君臣関係に変化していく。マラッカ王国が滅亡した後に編纂された年代記『スジャラ・ムラユ』には、子孫が支配者たる王に忠誠を誓う見返りとして相応の厚遇を受けるという臣下たちの言葉、マラッカの王がマレー人に行使できる権力にも限界がある王の言葉が記載され、この文には王権の力の程度が反映されていた[57]。パラメスワラがマラッカを都と定めた時、海上民はマラッカの開拓に協力したことへの見返りとして名誉の授与を請願し、パラメスワラは請願に応えて彼らを貴族に任命した[58]。パラメスワラは建国を助けた海上民に感謝の念と共に未開の土地の出身者という若干の軽蔑も持ち、海上民の最有力者であるブンダハラ家の人間も例外ではなかった[59]。王の居城と海上民の居住区には一定の距離が設けられ、王朝末期の君臣間の関係について、1506年にマラッカを訪れたイタリア人ヴァルテマの航海記には「民衆が事と次第によっては国を立ち退くぞと王を脅していた」と記録されている[60]

マラッカ王国で確立された宮廷儀礼、位階などのマレー型の王権は後世に受け継がれたと考える向きもある[61]。マラッカの宮廷儀礼の一例として、他国からの使節の歓待が挙げられる。パサイ、アルーなどのマラッカよりも上位にあるとされた国の使節団は、宮廷楽団全員による演奏をもって出迎えられ、献上品の類は象の背に乗せて運ばれた。国の等級が下がるにしたがって出迎えは簡素になり、末席の王に至っては謁見の際にトゥムンゴンと同列の席次しか与えられなかった[62]

司法

王国では土着の習慣とイスラーム法が合わさった『マラッカ法(ウンダン・ウンダン・ムラカ)』が編纂された[63]。この法律は奴隷に対しても一定の権利を保障しており、奴隷の中には主人であるブンダハラよりも良い衣服を着ていた者もいたという[64]。刑法については、当時のマラッカでは死刑執行の頻度が高かったことがピレスの『東方諸国記』で述べられている[65]。処刑された罪人の財産の処遇については、直系の相続者がいる場合は王と相続者で財産を折半し、相続者がいなければ全て王のものとされた[66]

経済

王国の食糧事情

マラッカ王国には農業用地となる後背地が少なく[67]、住民は漁業によって生計を立てていた[68]。建国当初、住民はサゴヤシから採れるデンプン(サゴ)を主食としていたが、人口の増加につれて周辺の地域で生産されるサゴだけで必要な食料を賄うことはできなくなり[53]、米などを食料として他国から食糧を輸入することとなった。ピレスによると、16世紀初頭にはジャワ島を初め、タイ、ペグーから10,000トン超の米が輸入されたという[69]。農業で得られる収益は歳入の10パーセント以下であり、交易の収入と関税、従属国からの貢納が財源の多くを占めていた[70]

海外貿易

マラッカ王国は、インド・中国間の航海期間を大幅に短縮できる中間の地点に位置し[71]、東はインドネシアの諸島や中国、西からはインドやアラブ世界から商人が訪れる国際都市であった[29]。インド方面ではグジャラートムスリムヒンドゥー教徒の商人が重要な貿易相手であり、南インドのタミル人やジャワ島人がこれに続いた。15世紀半ばからの中国は海禁政策に戻っていたが、禁令破りの中国人密輸商人も多数来航している。マラッカが交易都市として発展した要素の一つには、トメ・ピレスらが指摘した季節風の交差点に位置する立地があり[72]、日本の東南アジア史研究家石井米雄は風向に加えて交易港に必要な以下の条件を満たしていることを述べた。

  1. 予見可能な交易を保証する諸条件(関税の規則性,紛争解決手段の整備など)
  2. 船舶航行の安全を保障するためのパトロール機能,
  3. 積荷売り捌きのための市場
  4. 帰路の積荷とする魅力的商品集荷の便宜
  5. 風待ち期間中の倉庫設備
— 石井米雄「港市としてのマラッカ」『東南アジア史学会会報』53号(東南アジア史学会, 1990年11月)、9頁より引用

各国の商人が買い付けた物資は各々の国に出回り、ヨーロッパにはヴェネツィアなどの交易都市を経由してもたらされた[29]。王国は商品の売上税や関税から利益を得、またスルタンや高官は商人より個人的に受け取った貢物で富を蓄えた[29]。マラッカの商人は取引において契約書を作成せず、天を指して口頭で約束事を述べることで取引を成立させたが、この習慣は外国人を驚かせた[73]

外国人との商取引はシャーバンダルという外国商人出身の官吏によって統制され、バルボサはシャーバンダルの役割を各国の領事に例えた[74][注釈 6]。マラッカの最盛期には4人のシャーバンダルがそれぞれの出身地域の商人の世話をし[75]、中には職務を通して莫大な利益を得る者もいた[76]。4人はそれぞれグジャラート、ペグーやパサイなどの王国西部の港湾都市、ジャワやフィリピンといった東部の島々、そして中国と琉球が含まれる東アジアの商人を統率した。職務は倉庫の割り当て、商品の価格の算定と搬入の斡旋、商人同士の争いの調停であり[3]、国際交易を円滑に進めるための重要な役割を担った。

外国人が財政に登用されたのは、シャーバンダル職だけに限らなかった。スルタン・マンスールはヒンドゥー教徒の金融カーストに属する金融業者を抜擢して金融の組織化を図り[77]、またパレンバン出身の非イスラム教徒の奴隷を財政の担当官に起用した[77]

しかし、交易都市としてのマラッカの東南アジア内の地位は絶対的なものではなく、船舶を誘致するために様々な工夫を凝らした。その最たるものが他国よりも低い関税であり、周辺の港が12%の関税をかけていたのに対してマラッカは6%と低い税率(食料に税は課せられなかった[78])と若干の貢物を設定し、ジャワ、スマトラ、中国など東方からの船舶には関税を免除し、貢物のみを要求した[79]。港、航路のインフラの整備以外に商人と船員が必要とする日用品とくつろぎの場も提供され、各国の料理店が軒を連ねた[80]

交易の商品

マラッカと他国の間で取引された商品についてはピレスが『東方諸国記』に記録しており、そこから品目を知ることができる。

主要輸入品

※下記はピレス(1966, pp.457-462)、石澤 & 生田 (1998, pp. 322–325)による。

他にグジャラート、コロマンデル地方ベンガル地方などのインド方面からは綿布と衣類が輸入され、輸出の主力商品となった。また、明からは工芸品や香料以外に、庶民が購入する日用品も輸入された。

主要輸出品

  • 明、琉球:胡椒、クローブ、ナツメグ、香、象牙、、竜脳、蘆薈、プショ(薬種となるカシミール産の木の根)、数珠玉、蘇木、毛織物
  • アユタヤ:中国およびアラビア、ペルシアからの輸入品、奴隷、白檀、香辛料(胡椒、ナツメグ、メース)、金属類(水銀辰砂)、竜脳、プショ、子安貝
  • ペグー:中国からの輸入品、金、金属類(水銀、銅、辰砂、錫)、香辛料(胡椒、ナツメグ、メース)、真珠母貝
  • ジャワ島:カンバヤ(グジャラート地方の港市都市)からの輸入品、織物
  • ブルネイ:インド産の衣類、中国製の真鍮の腕輪、カンバヤから輸入されたガラス玉と数珠玉
  • モルッカ諸島:カンバヤからの輸入品、織物
  • バンダ諸島:インド方面で生産された織物
  • チモール島:白い織物

マラッカは他国から輸入した商品を別の国に輸出していた。輸出品目の中で唯一とも言える国土内の産物として、従属国から納入された金、貴族からの貢納と採掘によって得たが挙げられる[81]ペラなどのマレー半島西海岸で産出された錫が、インド、タイ、ビルマ方面に輸出された。

貨幣

※『東方諸国記』中の貨幣と金銀の価値については、ピレス(1966, p.465-469)を参照。

通貨として主に中国が使用されたが、これは15世紀初頭に来航した鄭和艦隊によってもたらされた可能性が高い[82]

中国の硬貨以外にマラッカ王国では独自の硬貨も鋳造され、マレー半島での採掘が容易な錫が硬貨に用いられた。2代君主イスカンダル・シャーは明の朝廷に即位を伝えに行った際に錫による貨幣を鋳造する許可も受けており[82]、実際に錫の貨幣が王国内で流通していたことが鄭和艦隊の一員であった馬歓、ポルトガルのトメ・ピレスらによって記録されている[83]

他にインド各地の貨幣、私製の貨幣、子安貝、金属片が貨幣として使われたが、当時の東南アジアの貿易圏には国際的に通用する通貨は存在していなかった[84]。この状況下、16世紀初頭における東南アジア港市の交易形態は寄港した土地で物資を売却して現地の貨幣を手に入れ、その貨幣で必要な物資を調達する形をとっていたが、この取引方法で自分の有する財産を保つためには、絶えず取引を続けなければならなかった[85]

16世紀のポルトガル商人フランチェスコ・デル・ボッチエールは、マラッカ王国での商取引はで行われ、現地の商人は金貨、銀貨を持ったことがなかったと報告したが[86]、この報告についてA.リードは、政治的に統一がなされていない東南アジアでは国内市場と国外市場の間に相当のギャップが存在するため、国際的な交易都市であるマラッカでの取引では価値のギャップが小さい金が必要だと考察した[86]


注釈

  1. ^ ピレスと同じ16世紀のポルトガル人ゴディーニョ・デ・エレディアポルトガル語版は、マラッカの地名はミロバラン英語版の木に由来すると述べた[4]
  2. ^ この婚約の8年後にイスカンダルは没したとピレスは記し、婚約が成立したのは1417年前後と計算できる[14]
  3. ^ ピレスによると、この婚姻の後イスカンダルはイスラムに改宗したとされるが、『東方諸国記』の訳注を担当した生田らは改宗にまつわる婚姻の説話は事実ではないと指摘した。しかし、イスカンダルが最初にイスラムに改宗したマラッカ王という点は肯定している[15]
  4. ^ 『東方諸国記』に訳注を施した生田らはスリ・パラメスワラ・デワ・シャーとムザッファル・シャー英語版が同一人物ではないかと指摘している[21]
  5. ^ マラッカの陥落がパタニに及ぼした影響については、A.リード(2002, p.286, 『拡張と危機』)に詳しい。
  6. ^ シャーバンダルの概略については、右記も参照。 家島彦一「シャーバンダル」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)、生田滋「シャーバンダル」『東南アジアを知る事典』収録(平凡社, 2008年6月)
  7. ^ 「永楽元年十月遣中官尹慶使其地、賜以織金文綺・銷金帳幔諸物。(中略)慶至、宣示威徳及招徠之意。」『明史』巻325、列伝第213、外国6、満剌加より。
  8. ^ 「帝嘉之、封為満剌加国王(後略)」『明史』巻325、列伝第213、外国6、満剌加より。
  9. ^ ピレス(1966, p.596)に、明への入貢が行われた年度が表にまとめられている。

出典

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  125. ^ A.リード 2002, pp. 264–265, 『貿易風の下で』.
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  127. ^ イ・ワヤン・バドリカ 2008, pp. 77, 89.
  128. ^ イ・ワヤン・バドリカ 2008, p. 89.
  129. ^ 家島「イスラーム・ネットワークの展開」『東南アジア近世の成立』、32-35頁






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