ペリリューの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 23:53 UTC 版)
背景
日本側の事情
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F7%2F7d%2FKunio_nakagawa.jpg%2F150px-Kunio_nakagawa.jpg)
パラオは第一次世界大戦後に国際連盟による日本の委任統治領となり、1922年南洋庁がコロール島に設置されて内南洋の行政の中心となっていた。
日本人はパラオに米食の習慣を定着させ、なすやきゅうりなど野菜やサトウキビ、パイナップルなどの農業を持ち込み、マグロの缶詰やカツオ節などの工場を作って雇用を創出した。道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引いた。南洋興発などの企業が進出し、水産業、リン鉱石採掘業と小規模なパイナップル農業が企業化されていて、1943年にはパラオ在住者は33,000人おり、その内の7割は日本本土、沖縄、日本が統治する朝鮮や台湾などから移り住んできた人達であった。
国際連盟規約に基づく委任統治領の軍備制限により、パラオへ要塞など軍事的な根拠地を構築することは禁止されて、パラオ本島(バベルダオブ島)に民生用として小規模な飛行場があるだけだったが、日本の国際連盟脱退後はパラオは重要な軍事拠点のひとつとして整備が進められた。1937年にパラオ本島飛行場の拡張とペリリュー島に飛行場の新規建設が開始され、1941年太平洋戦争開戦時のペリリュー島には1200m滑走路2本が交差して上空からは誘導路含め 4 の字に見える飛行場が完成していた。
そしてペリリュー島の300m北隣のカドブス島にも滑走路1本が造られ、両島の間には長い桟橋が伸びていて橋として渡ることができた(戦闘の破壊から免れたコンクリート製橋脚の一部が2010年現在でも遺されている)。1943年9月30日絶対国防圏の設定、10月11日付「作戦航空基地ニ関スル陸海軍中央協定」により、防衛体制の整備が進められていった。
内南洋での日本海軍根拠地に対してアメリカ機動部隊は、1944年2月17日にトラックを、同年3月30日にはパラオを空襲し、その機能を喪失させた。トラックが空襲を受ける1週間前に連合艦隊主力はパラオへ向け移動していたため無事だったが、パラオも空襲されたことで、3月31日古賀峯一連合艦隊司令長官は連合艦隊司令部をミンダナオ島ダバオへ移そうとして海軍乙事件が起きてしまう。
中部太平洋のアメリカ軍侵攻ルートを地図上にたどれば、タラワ、マーシャル、トラックとほぼ一直線に並んでおり、その先にはパラオがあった。大本営はその状況から、アメリカ軍はパラオ経由でフィリピンに向かうものと判断し、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部を結んだ三角地帯の防備を強化して、アメリカ軍へ反撃を加える構想を練り上げた。
それまで大艦巨砲主義に基づく決戦論者である古賀司令長官の連合艦隊では新Z号作戦を策定しており、マリアナ諸島〜西カロリン〜西部ニューギニアに邀撃帯を設けて、ニミッツ軍とマッカーサー軍の二方面で進攻してくるアメリカ軍を迎え撃とうとしていた。しかし海軍乙事件での連合艦隊司令部壊滅により、二方向の予想アメリカ軍進攻ルートは合流してフィリピンに向かうものという一方的な想定と、帯よりも三角地帯で迎撃する方が艦隊決戦を行うには都合が良いという主観的判断で、作戦構想が見直されて軍令部が中心となって「あ号」作戦として決戦構想がつくられた[10]。その三角地帯の内側にパラオはあり、グアムやサイパンの後方支援基地としても、パラオは当時の日本軍にとって戦略的価値が急浮上していた。
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F7%2F7d%2FImperial_Japanese_Army_15nd_regiment_in_Peleliu.jpg%2F250px-Imperial_Japanese_Army_15nd_regiment_in_Peleliu.jpg)
日本陸軍は絶対国防圏を守るため、中部太平洋方面防衛の第31軍の作戦地域にパラオを含め、関東軍最強と呼ばれてマリアナ諸島への配備を予定していた第14師団(照兵団)を1944年4月に東松5号船団によってパラオへ派遣した。
第14師団麾下の水戸歩兵第2連隊が中核となってペリリュー島の守備に当たらせ、パラオ本島とマラカル島には状況に応じて機動的に運用できる予備兵力として高崎歩兵第15連隊を基幹とした兵力を配置した。彼らは大本営よりアメリカ軍の戦法についての情報伝達を受け、水際の環礁内の浅瀬に乱杭を打ち、上陸用舟艇の通路となりそうな水際には敵が上陸する寸前に敷設できるよう機雷を配備するとともに兵士を訓練し、またサンゴ礁で出来たコンクリート並に硬い地質に存在する500以上におよぶといわれる洞窟には縦横に坑道を掘り要塞化するなど、持久戦に備えた強固な陣地を築きアメリカ軍の上陸に備えた。アメリカ軍がマリアナへ侵攻すると、ペリリューには更に第14師団戦車隊ならび歩兵第15連隊の1個大隊(第3大隊)が増援された。
ペリリューの戦いにおける日本軍の戦闘方針は、情報参謀堀栄三が作成した『敵軍戦法早わかり』の内容を元に計画されたものであるという(昭和19年3月、第14師団に対し大連にて、米軍の戦法その他について堀から直接説明の場が設けられた。中川州男大佐はこの場で熱心にメモを取り、時にはみずから質問していたという)[11]。また、大本営はサイパン島から報告された戦訓を元に、1944年7月20日に戦訓特報第28号を発行し全軍に通知したが[12]、ペリリュー島の陣地構築にはこの通知も参考にされている[13]。
- 砲爆撃対策と対戦車戦闘は対米戦の運命を決する二大項目である
- 戦車には砲撃と肉弾戦が有利
- 縦深陣地は絶対に必要、複郭陣地も準備必要
- 熾烈な砲爆撃特に艦砲射撃に対し、築城により兵力・資材をなるべく貯存して、敵に近迫して白兵戦に持ち込む訓練を行う
- 砲爆撃により、幹部の死傷者が増え指揮組織が崩壊した時に対する事前対策、特に中隊長級指揮官の統率力の強化
- 戦況が切迫してきた際は直接戦闘に関係ない土木作業(飛行場設営など)に無用な人力はかけず、陣地構築に集中する。
日本海軍も、西カロリンにアメリカ機動部隊が1944年5月末から6月中旬ごろに進攻してくると予想して、これに決戦を挑み撃破して戦局の転換を図るとした「あ号」作戦を5月20日に発令、新設の第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)と基地航空隊の第一航空艦隊(約650機)を軸に決戦の必勝を期し、ペリリュー島飛行場にも第61航空戦隊の、零式艦上戦闘機(第263海軍航空隊と第343海軍航空隊)、月光(第321海軍航空隊)、彗星(第121海軍航空隊と第523海軍航空隊)、一式陸上攻撃機(第761海軍航空隊)が分遣された[14]。
日本側の予想に沿うように5月27日、西部ニューギニア沖合のビアク島にアメリカ軍が上陸したので、日本軍は渾作戦を発動し海軍第一航空艦隊の大部分をビアク島周辺へ移動、合わせて大和、武蔵の戦艦部隊を送ってアメリカ上陸支援艦隊を撃退しようとした。
ところが大本営の予想は外れて、ビアク島の戦いが続いているにも拘らずアメリカ軍は、6月11日マリアナへ来襲、6月15日サイパン島に上陸してきた。ビアク島救援どころではなくなった日本海軍は、ビアク島空域の作戦をしていた第一航空艦隊をマリアナに呼び戻してアメリカ軍を迎撃させると共に、想定とは違う戦場となるマリアナへ向けて第一機動艦隊を出撃させ、ビアク島到達前に渾作戦が中止となった戦艦部隊も途中で合流させてマリアナ沖海戦に挑んだ[14]が大敗、三角地帯で米軍に反撃を加えるという作戦構想は崩壊してしまった。航空反撃を行おうにも、ラバウルから基地航空隊は既に引き揚げられ、トラックとパラオの航空戦力は壊滅していたため、この時点ではパラオ防衛の戦略的価値は、単にアメリカ軍のフィリピン侵攻の足がかりに利用されるのを防ぐという意味しかなくなってしまっていた。
アメリカ側の事情
太平洋方面のアメリカ軍首脳部は、マリアナ攻略戦の最中に今後の進撃ルートの再検討を始めた。アメリカ海軍チェスター・ニミッツ提督は「マリアナの後、フィリピン、台湾を目指し、台湾を拠点として海上封鎖とアメリカ陸軍航空軍による戦略爆撃で日本を降伏に追い込む」のを目指していた。アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー大将は「ニューギニア西方に位置するモルッカ諸島のモロタイ島からフィリピンのミンダナオ島、レイテ島を経由して、日本本土侵攻」をも視野に入れていた。
するとアーネスト・キング海軍作戦部長が「南方資源地帯と日本本土の間のシーレーンを遮断するため、フィリピンは迂回して台湾に上陸、中国大陸沿岸部の到達を目指すべきで、最終的に日本本土を攻略」と主張し出して混乱し、そこへサイパンの戦いで上陸部隊を統率しているアメリカ海兵隊ホーランド・スミス中将が米陸軍第27歩兵師団 (アメリカ軍)長ラルフ・スミス陸軍少将を「攻撃精神と指導力の不足」を理由に解任したことで「スミスVSスミス」と呼ばれる大問題となり、陸海軍の混乱は収拾がつかなくなった。
結局フランクリン・ルーズベルト大統領の指示によりアメリカ統合参謀本部がフィリピン侵攻に至る作戦計画を作成して、混乱は収拾された[注釈 2]。
計画では「1944年9月15日マッカーサーの陸軍主体の連合国南西太平洋方面軍が担当するモロタイ島攻略実施。海軍主体の連合国中部太平洋方面軍が担当して同日パラオのペリリュー島とアンガウル島、10月5日ウルシー環礁の攻略実施。11月15日ミンダナオ島へ、12月20日レイテ島へ上陸」という予定で、9月11日の第2回ケベック会談でイギリスのウィンストン・チャーチル首相に対して発表された。(この際の戦略決定の経緯についてはフィリピンの戦い (1944-1945年)#アメリカを参照。)
パラオ侵攻についてウィリアム・ハルゼー中将(当時)は「ペリリュー攻略はタラワの戦いのように多大な損害を強いられるだろうし、アメリカ機動部隊の空襲でパラオの日本軍飛行場と航空戦力はもはや脅威ではないからパラオは迂回すべきである」と正確に情勢判断しており、艦隊泊地として利用価値のあるウルシー攻略を優先するようニミッツへ意見具申していたのだが、ニミッツはマッカーサーの陸軍と張り合う立場上から「ミンダナオ島から800kmしか離れていないパラオから日本軍が、アメリカ軍のフィリピン攻略部隊へ航空攻撃を仕掛けてくる懸念がある。」「フィリピン進行への航空作戦の拠点ともなる前進基地を確保する。」という理由づけで、パラオ攻略作戦を計画して実行に移すこととなった。
それは海軍の肩を持つルーズベルトの指示で練られ、イギリスなど同盟国にも説明済で準備も進められているパラオ侵攻計画を覆すことにもなるハルゼーの意見が到底受け入れられる筈も無かったのである。
ペリリュー島の上陸部隊は、ガダルカナル島の戦いによりアメリカ軍最強とうたわれ、ニューブリテン島西部でのグロスター岬の戦いも経験し、日本軍相手に敵前上陸とそれに続く激しい攻防戦での戦訓を得ていて、強大化され士気も旺盛な第1海兵師団が担当することとなった。その師団長ウィリアム・リュパータス海兵少将は、ガダルカナル戦当時は准将で同師団の副師団長としてツラギ上陸部隊を指揮し[15]、その後のニューブリテン島では師団長として戦闘を経験していた。
1944年9月6日からアメリカ軍は艦載機による侵攻前の予備爆撃を始めて日本軍の防御力を削ごうとしたが、堅固な防御陣地と対空砲火に阻まれ効果的とは言い難かった[16]。また特殊工作員が上陸し、日本軍陣地の配置を探ったり、機雷の無力化を行ったという[17]。
注釈
出典
- ^ a b c d e f 戦史叢書13 1968, p. 211.
- ^ “The Stamford Historical Society, Pride and Patriotism: Stamford's Role in World War II, Battles: Peleliu”. 2020年8月9日閲覧。
- ^ a b c d Michael G.Walling 2017, p. 425.
- ^ a b c d Richard Bright 2007, p. 231.
- ^ “The Hell of Peleliu: An account on the flags of the KIA Marines and soldiers by Dan Reeder”. www.ww2wrecks.com. 2020年8月9日閲覧。
- ^ a b c d Robert A.Simonsen 2009, p. 48.
- ^ “The Stamford Historical Society, Pride and Patriotism: Stamford's Role in World War II, Battles: Peleliu”. www.stamfordhistory.org. 2020年8月9日閲覧。
- ^ “The Hell of Peleliu: An account on the flags of the KIA Marines and soldiers by Dan Reeder”. www.ww2wrecks.com. 2020年8月9日閲覧。
- ^ Robert Ross Smith. “The Approach to the Philippines”. 2020年8月9日閲覧。
- ^ 別冊歴史読本50 日本の戦争(新人物往来社、2006年)156頁
- ^ 『大本営参謀の情報戦記』 文春文庫、157頁。
- ^ 戦史叢書6 1967, p. 509.
- ^ 白井明雄 2003, p. 70.
- ^ a b 戦略・戦術でわかる太平洋戦争(日本文芸社、2002年)226-232頁
- ^ 瀬戸利春 「ペリリュー島攻防戦」『歴史群像』2009年8月号、学研パブリッシング。
- ^ 平塚柾緒 『証言記録「生還」―玉砕の島ペリリュー戦記』 学研、2010年、64頁。
- ^ 平塚柾緒 『証言記録「生還」―玉砕の島ペリリュー戦記』 学研、2010年、66-80頁。
- ^ Hastings, Retribution, pp. 236-244.
- ^ 太平洋戦争の現場がわかる本 P.112〜123 なぜペリリューで戦われたのか?(歴史研究班/2005年 チェリーハウス、星雲社)
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』62頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』65頁
- ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 90頁
- ^ a b c 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』169頁
- ^ チェスター・W・ニミッツ 『ニミッツの太平洋戦史』 恒文社 292頁
- ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』付表第5
- ^ a b c 戦史叢書13 1968, p. 168.
- ^ a b 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 33頁
- ^ a b c 戦史叢書13 1968, p. 169.
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』167頁
- ^ 佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』179頁
- ^ 佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』181頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』158頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』168頁
- ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 66頁
- ^ 岡村青 2018, p. 129
- ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 113頁
- ^ 岡村青 2018, p. 130
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』199頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』215頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』222頁
- ^ 佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』182頁
- ^ 佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』183頁
- ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 127頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』243頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』272頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』237頁
- ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 137頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』250頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』264頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』253頁
- ^ a b ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』282頁
- ^ 佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』188頁
- ^ a b 佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』189頁
- ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』180頁
- ^ 佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』190頁
- ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 105頁
- ^ 佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』194頁
- ^ 佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』198頁
- ^ 佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』200頁
- ^ 佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』201頁
- ^ 佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』204頁
- ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』184頁
- ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 135頁
- ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』185頁
- ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 118頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』335頁
- ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 162頁
- ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 165頁
- ^ a b 秦 2012, p. Kindle版203.
- ^ a b 戦史叢書13 1968, p. 187.
- ^ a b 秦 2012, p. Kindle版210.
- ^ a b 秦 2012, p. Kindle版234.
- ^ 戦史叢書13 1968, p. 188.
- ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 202頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』371頁
- ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 209頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』429頁
- ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 156頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』422頁
- ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 223頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』501頁
- ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 172頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』503頁
- ^ 岡村青 2018, p. 212.
- ^ 岡村青 2018, p. 219.
- ^ 岡村青 2018, pp. 220–221.
- ^ 秦 2012, p. Kindle版264.
- ^ 岡村青 2018, p. 221.
- ^ 戦史叢書13 1968, p. 230.
- ^ 児島襄 1974, p. Kindle1929.
- ^ 岡村青 2018, p. 226.
- ^ 岡村青 2018, p. 228.
- ^ 児島襄 1974, p. Kindle1940.
- ^ 岡村青 2018, p. 229.
- ^ 水戸歩兵第二聯隊史刊行会 1988, p. 475.
- ^ 岡村青 2018, p. 230.
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』528頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』534頁
- ^ 激戦地ペリリュー島から帰還 元日本兵 永井敬司さん死去 - NHK[リンク切れ]。
- ^ 戦史叢書13 1968, p. 208.
- ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』208頁
- ^ “激戦地・ペリリュー島から生還、永井敬司さん死去 | 朝日新聞デジタル web”. www.asahi.com. 2021年7月14日閲覧。
- ^ Gayle, Gordon, BGen USMC. “BLOODY BEACHES: The Marines at Peleliu”. 2015年12月23日閲覧。
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』542頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』117頁
- ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー大戦回顧録』 津島一夫訳 2014 225頁
- ^ 佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』173頁
- ^ チェスター・W・ニミッツ 『ニミッツの太平洋戦史』 恒文社 293頁
- ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』543頁
- ^ a b 平塚柾緒『証言記録生還: 玉砕の島ペリリュー戦記』学研パブリッシング、2010年8月24日、245頁。ISBN 978-4-05-404672-6 。
- ^ “The Stamford Historical Society, Pride and Patriotism: Stamford's Role in World War II, Battles: Peleliu”. www.stamfordhistory.org. 2020年8月4日閲覧。
- ^ 平塚柾緒『証言記録生還: 玉砕の島ペリリュー戦記』学研パブリッシング、2010年8月24日、13頁。ISBN 978-4-05-404672-6 。
- ^ “The Stamford Historical Society, Pride and Patriotism: Stamford's Role in World War II, Battles: Peleliu”. www.stamfordhistory.org. 2020年8月4日閲覧。
- ^ “The Hell of Peleliu: An account on the flags of the KIA Marines and soldiers by Dan Reeder”. www.ww2wrecks.com. 2020年8月9日閲覧。
- ^ “The Stamford Historical Society, Pride and Patriotism: Stamford's Role in World War II, Battles: Peleliu”. www.stamfordhistory.org. 2020年8月4日閲覧。
- ^ “The Hell of Peleliu: An account on the flags of the KIA Marines and soldiers by Dan Reeder”. www.ww2wrecks.com. 2020年8月9日閲覧。
- ^ Robert Ross Smith. “The Approach to the Philippines”. 2015年12月23日閲覧。
- ^ “戦死者1万人…死闘を指揮した「南洋のサムライ」”. 読売新聞オンライン (2019年8月4日). 2023年8月29日閲覧。
- ^ 産経新聞社 2015年1月2日付記事『天皇の島から 戦後70年・序章 時を超え眠り続ける「誇り」 集団疎開させ、島民を守った日本兵』】
- ^ 岡村青 2018, p. 118.
- ^ 名越二荒之助編『秘話・大東亜戦争とアジアの歌声』(彌吉博幸「パラオの巻」)展転社、1994年2月。ISBN 978-4886561015
- ^ 月間『宝石』1966年9月号『最後の1兵は女性だった、と語り伝えられるペリリュー島日本守備隊の奮戦記』
- ^ 新井恵美子 2013, p. 1.
- ^ “命ある限り戦え、そして生き抜くんだ2014年8月15日(金)放送終了”. 2020年8月9日閲覧。
- ^ 秦 2012, pp. Kindle版110-121.
- ^ 秦 2012, pp. Kindle版251.
- ^ 秦 2012, pp. Kindle版274-385.
- ^ 平塚柾緒『証言記録「生還」―玉砕の島ペリリュー戦記』(学研、2010)197-204頁(平塚柾緒 『証言記録「生還」―玉砕の島ペリリュー戦記』、学研、2010)
- ^ 秦 2012, p. Kindle版303.
- ^ 秦 2012, p. Kindle版314.
- ^ 秦 2012, p. Kindle版351.
- ^ 秦 2012, p. Kindle版356.
- ^ 名越二荒之助著『世界に生きる日本の心』1987年、展転社
- ^ ・VHS『天翔る青春 日本を愛した勇士たち』(企画:日本を守る国民会議/制作:国際企画/38分/2005年)https://auc1.net/auction/b388002843 ・VHS『美しい日本の心シリーズ:天翔る青春 日本を愛した勇士たち』(企画:日本会議/制作:国際企画)https://aucview.aucfan.com/yahoo/e150369219/?_ebx=bat711ip3c.1625290650.7mj8g69#_ga=2.75819229.934736256.1660003886-1662689854.1660003886 ・DVD『終戦60年特別企画DVD:天翔る青春 日本を愛した勇士たち』(企画・制作・販売:(有)日本会議事業センター/72分/2005年制作)https://www.nipponkaigi.org/date/2015/04?cat=3 /https://aucfree.com/m/items/e366527620/日本会議書籍販売コーナー(運営:日本会議事業センター)https://web.archive.org/web/20200810051040/https://kaerushop.thebase.in/items/1824204
- ^ “『日本とパラオの絆② 「ペリリュー島を讃える歌」』(DVD『天翔る青春ー日本を愛した勇士たち』より)”. 日本会議 (2015年4月7日). 2022年8月8日閲覧。
- ^ 『世界に生きる日本の心』(展転社、1987年)
- ^ 岩波文庫ヘロドトス「歴史」下P131-132参照
- ^ 1945年「On to Westward」ロバートシャーロッド著p148
固有名詞の分類
- ペリリューの戦いのページへのリンク