アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード
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イブン・サウード ابن سعود | |
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ナジュド国王 ヒジャーズ国王 サウジアラビア国王 | |
1940年代のイブン・サウード | |
在位 |
1902年 - 1932年9月23日(ナジュド国王) 1926年1月8日 - 1932年9月23日(ヒジャーズ国王) 1932年9月23日 - 1953年11月9日(サウジアラビア国王) |
全名 |
عبد العزيز بن عبد الرحمن بن فيصل آل سعود アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラハマーン・ビン・ファイサル・アール・サウード |
出生 |
1876年11月26日 ナジュド・リヤド |
死去 |
1953年11月9日(76歳没) サウジアラビア・ターイフ |
埋葬 | サウジアラビア・リヤドウード墓地 |
家名 | サウード家 |
父親 | アブドゥルラフマーン・イブン・ファイサル・アール・サウード |
母親 | サラ・ビント・アフマド・アール・スダイリー |
宗教 | イスラム教ワッハーブ派 |
生涯
アラビア中部のリヤド周辺にまで縮小し、且つラシード家のジャバル・シャンマル王国に実権を奪われていたサウード家の出身である。ワッハーブ派イマームである父が第二次サウード王国の実権を握っていたラシード家の勢力をリヤドから排除することに失敗し、1891年に一族とともに放浪した果てにクウェートに亡命。これにより、分裂して衰退していた第二次サウード王国は完全に滅亡する。
1901年、クウェートの大首長ムバーラク・ビン・サバーハ・アッ=サバーハとジャバル・シャンマル王国のラシード家との戦いに参加し、別働隊としてリヤド攻略を担当するも、本隊の大敗により陥落させることが出来なかった。
1902年、22歳[2]のときに40人の兵力でマスマク城に居を構えていたアジュラーン総督を討ち取りリヤドを奪還した(リヤドの戦い)。1914年から第一次世界大戦が始まると、連合国の1国であるイギリスに協力して力を蓄える。1919年にサウード家の勢力拡大が自身の独立に影響を与えると考え、ラシード家を影で支援していたクウェートのサリーム首長に業を煮やしたアブドゥルアズィーズはクウェートに侵攻するが、イギリスは空軍を派遣してけん制したために、彼はクウェート侵攻を諦めている。この様にイギリスはサウード家の勢力拡大に全面協力していたわけでなく、またサウード家を支援したのは専らイギリスでもジョン・フィルビーの所属したインド総督府であり、アラビアのロレンスが所属するイギリスのカイロ領事はハーシム家を支援していたが、アブドゥルアズィーズはイギリスとの戦力差をわきまえており、反抗することはなかった。1920年にはそのイギリスの支援を背景にして中部アラビアを支配下に置いた。
1921年にはラシード家を滅ぼし、1925年にはヒジャーズ王国をハーシム家より奪い、1927年にはイギリスとジッダ条約を結んでナジュド王国の独立を認めさせると共にイギリスとなおも友好関係を維持した。
1931年にはナジュド及びヒジャーズ王国の建国を宣言して、自らマリク(王)となった。
サウジアラビア建国後
ナジュド及びヒジャーズ王国の建国の翌1932年には、サウジアラビア王国と国名を変更した。
1939年に勃発した第二次世界大戦においては、常にイギリスやアメリカ合衆国などと同じく連合国側の一員として行動する。1945年2月ヤルタ会談から米国に戻る途中のルーズベルト米國大統領とスエズ運河に停泊中の米巡洋艦上にて会見している[3]。
大戦末期の1945年にはアラブ連盟に加盟する。1948年にはパレスチナ戦争が起こり、アブドゥルアズィーズもサウジ軍を派遣するが、国境を接しておらず、また米英との戦力差を熟知している故に米英のゴーサインが出ない紛争には介入しない方針だったために、パレスチナ問題にはあまり積極的ではなく、さらに自身同様にアラブ圏のリーダーを自認するエジプト王国やシリア、宿敵のハーシム家のアブドゥッラー1世が君臨するヨルダン・ハシミテ王国や同じくハーシム家のファイサル2世が君臨し元ヒジャーズ王族のアブドゥル=イラーフが摂政であるイラク王国と歩調が合うはずもなくアラブ連合軍は敗北し、アラブ圏に自由将校団を中心とするアラブ民族主義共和制派の台頭を招くことになる。なお、アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード本人はイスラエル建国についてフランクリン・ルーズベルトに「ユダヤ人が国を作りたいというのはもっともだが、ユダヤ人のナチス・ドイツからの迫害をどうこう言うならなぜドイツにその罪を償わせることを考えないのか。ユダヤ人が好む最良のドイツ領土を割譲させ、ドイツにユダヤ人国家を作ればいい」と述べたという[4]。
これより先の1924年にホームズ少佐にアル=ハサ地方の石油利権を与え、1928年の赤線協定が施行され、1933年にホームズ少佐からガルフ石油に移行した石油利権がカリフォルニア=アラビアン・スタンダード石油に移って以降、アメリカ合衆国との関係が深まり、1938年にはアラムコにより、サウジアラビア初の油田が発見され、メッカ・メディナの2大聖地巡礼に代わる財源を確保。パレスチナ戦争後はアメリカ合衆国との協調関係がさらに進み、アメリカ合衆国から新鋭機械を導入するなどして自国内の油田開発に当たった。
宗教においても自身がイマームを務めるワッハーブ派のイスラム教(最も厳正で復古主義的)を国教として定めるなどして、サウジアラビア王国の基礎を築き上げた。
1953年11月9日、狭心症により崩御。宝算77。500リヤル紙幣に肖像が使用されている。
人物
- 身長2メートルの大男かつ怪力の持ち主で、武勇にも秀でていた。
- リヤドのサウード家がラシード家のムハンマド・イブン・アブドゥッラーに追われてクウェートにいたが、同じ頃、当時のクウェート首長のムハンマドの弟で、インドのボンベイから帰ってきていた後のムバーラク大首長はアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの才能に目を付け、彼に教育を施し、のちに秘書としたという。また、ムバーラクはサウード家に好意的であったという。
- 当時サウジアラビアでは厳格なワッハーブ派を国教としていたこともあり、イスラム教の刑罰に基づき泥棒は右手首を切り落とすという厳罰をとっていた(ハッド刑も参照)。アメリカ人はこの厳罰を止めるように度々諫言するが、「罪を償わせるために何年も牢屋に入れるのと、いましめのために手首を斬って釈放するのと、果たしてどちらが個人の自由を尊重しているのか?」と答えて、刑法を改めることはなかった。
- 晩年、顧問官のユースフ・ヤシーンから、歴史書を読むことを薦められたとき、「私は史書を紐解いたりはしない。私の額には歴史そのものが刻まれているからだ。」と言ったという。
- 血縁をことのほか重視するアラブ社会において有力部族の部族長の娘に子どもを産ませるため、100回以上の結婚を余儀なくされた[5]。最後の男子が生まれたのは71歳の時であった。
- ^ a b c 「世界歴代王朝王名総覧」(1998年、東洋書林)参照
- ^ 正確な生年月日が不明のため年齢は推測であり、資料によっては21歳となっている物もある。
- ^ “米・サウジ「40年の密約」”. ニューズウィーク日本版(1992年2月20日号). TBSブリタニカ. (1992-2-20). p. 28.
- ^ 大森実「ファイサル」講談社、1979年、P12
- ^ 大島(1981)p.19
- ^ サウジアラビアにおける奴隷制度は1962年まで存続していた。
- ^ サウジアラビア現代史
- ^ 「サウジアラビア王朝史」383頁参照。娘については、女性は系図に掲載されていないために同書にも記載がないため、省略した。
- 1 アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードとは
- 2 アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの概要
- 3 家族
- 4 脚注
固有名詞の分類
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