1990年 - 1994年
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「平城・相楽ニュータウン」の記事における「1990年 - 1994年」の解説
1990年(平成2年) 1月8日 - ハイタッチ・リサーチパークで最も早く完成した二条丸八の「セレモニー研究所」の完工式が行われる。 3月 - フードセンター中村屋高の原店が開店。 3月 - 相楽台保育園の園舎が増築される。 3月15日 - 奈良交通木津川住宅線の山田川-木津川台2丁目間を高の原駅-山田川-木津川台2丁目間に延長、運行開始。 5月 - 地元住民の要望を受けて平城東公民館が開館。 8月 - 平城浄化センター供用開始。 8月 - 京都府道・奈良県道751号木津平城線が拡幅される。 8月1日 - 公団による改良工事と奈良市による処理能力の増強工事が行われた平城浄化センターが奈良市に移管される。 8月 - 大里公園に大里資料館ができる。 9月1日 - 平城団地線の朱雀4丁目-総合福祉センター間を高の原駅-朱雀4丁目-左京6丁目間に延長、運行開始。 9月1日 - 歌姫近隣公園併用開始。 9月1日 - 大里公園(その2)、音浄ヶ谷公園の併用開始。 9月19日 - ハイタッチ・リサーチパークの第1期分がグランドオープン。 9月 - 山松川汚水中継ポンプ場が完成。 1991年(平成3年) 3月19日 - 奈良交通学園前高の原線の学園前-高の原駅間直通運行開始。 高の原中央病院の増改築工事が完成。 5月8日 - 相楽地区第2回施工規定事業計画変更認可。 5月 - 信楽高原鉄道列車衝突事故により、研究開発事業委員会企画の世界陶芸祭を見学する途中だったハイタッチ・リサーチパークの関係者のうち6人が死亡し、17人が重軽傷となる。 5月15日 - 総合福祉センターの関係施設として「野鳥の森」が開園。障害者や市民の憩いの場として、2,217.5m2の敷地に高さ21-25mの鉄柱を軸にネットが円錐状に張られたバードケージや多目的広場などが設けられた。また、キャンベラから奈良市との姉妹都市締結記念としてモモイロインコ、クルマサカオオム、アカエリゴシキセイガイが送られる。 5月23日 - 協同組合ハイタッチ・リサーチパークが、信楽高原鉄道列車衝突事故で死亡した6人の合同追悼式を6月1日にタッチワン・センターで開くことを決める。 6月1日 - ハイタッチ・リサーチパークで信楽高原鉄道列車衝突事故で死亡した6人の追悼式が行われる。 6月1日 - いけたに保育所が開所。 6月 - 左京四丁目自治会が発足。 7月16日 - 奈良県が、関西文化学術研究都市平城地区の国道24号沿い約5.4haに予定している生活・情報関連企業を集めた研究所団地の開発を進めるため、施設整備委員会を発足。 8月 - サンタ・マリアが開設。特別養護老人ホームとショートステイの事業を開始。 8月21日 - ケーブルテレビ放送が開始。 9月1日 - 神功一丁目緑地、朱雀一丁目緑地の併用開始。 大和ハウス工業が総事業費約150億円をかけ、奈良県が関西文化学術研究都市平城地区に予定している研究所の約2.9haの用地に研究所、実験棟、研究者棟を建設することを決定。 10月 - サンタ・マリアがデイ・サービスセンター事業を開始。 11月 - PHP総合研究所研修開発センターが竣工。 12月 - 奈良市立左京小学校に固定観測局を設置。 1992年(平成4年) 1月 - サンタ・マリアが在宅介護支援センターの事業を開始。 1月16日 - 奈良交通高の原案内所が設置される。 2月5日 - 奈良県が、関西文化学術研究都市平城地区に予定している生活・情報関連企業を集めた研究所団地の用地を購入・立地する企業について、ニッタ、三輪そうめん山本、呉竹精昇堂、三笠産業など6社を発表。 3月 - YAMANAKA アート研究センターが竣工。 4月 - アルス高の原自治会が発足。 4月 - 平城地区の開発当初より消防出張所が予定されていたことに加え、自治会・自治連合会からも要望があったことから奈良市消防本部中消防署北出張所が開所。 6月 - サンタ・マリアが配食サービスの事業を始める。 5月15日 - 奈良県が、関西文化学術研究都市平城地区に予定している生活・情報関連企業を集めた研究所団地について、「森の中の研究所」「地域に開かれた整備」をテーマにした基本構想を明らかにし、その中で研究所名を万葉集に登場する研究所周辺の古称「奈良山」から「ならやま研究パーク」とすることを決定。 10月 - きんでん京都研究所が竣工。 10月 - ハイタッチ・リサーチパーク第2期分がグランドオープン、総合竣工式を挙行。 1993年(平成5年) 1月4日 - 左京五丁目緑地併用開始。 3月 - 平城派出所が近鉄高の原駅前派出所に移転。建物はモダンな和風建築様式。 3月 - 平城左京団地入居開始。 3月5日 - ならやま研究パークで大和ハウス工業が、新しい総合技術研究所を4月に着工することを発表。土地代を含めた投資額はおよそ150億円で、敷地面積は約28,650m2、建物は地上4階、地下1階建てでテーマホール棟、本棟、実験棟、セミナー棟からなり、延べ床面積は約23,680m2。 3月24日 - 神功小学校のバンビーホームが増築される。 3月 - 兜谷集会所が完成。 4月1日 - 奈良市立朱雀小学校の校区を分割し、奈良市立左京小学校が開校。 4月1日 - 左京小学校にバンビーホームが開設される。 4月1日 - 奈良市立朱雀幼稚園年長組が分離し、奈良市立左京幼稚園が開園。 4月1日 - 奈良交通高の原木津線の高の原駅-南陽高校-木津駅間運行開始。 4月1日 - 高の原第1自転車駐車場、高の原第2自転車駐車場、高の原第3自転車駐車場が開設。 4月1日 - 木津町立相楽台小学校が開校。 4月 - 朱雀左京自治連合会が朱雀自治連合会、左京自治連合会に分割。 4月14日 - ならやま研究パークで「ならやま小橋」の渡り初めが行われる。 4月26日 - 奈良交通相楽ニュータウン線の兜台一丁目西-相楽三丁目間を延長、高の原駅-兜台五丁目間、高の原駅-山田川間を運行開始。 7月1日 - 高の原駅前派出所が新大宮駅前派出所・尼ケ辻派出所とともにテレビ電話対応システム(愛称:留守ビジョン)を導入。 7月16日 - ならやま研究パークで南都経済センターの研究所の起工式が行われる。 8月1日 - 左京二丁目街区公園併用開始。 8月 - 奈良市環境清美センターに大気中オキシダント測定器が設置される。 9月21日 - 精華町議会で通称町名を新町名にすることが可決。 10月 - 平城左京団地自治会が発足。 10月19日 - 相楽地区第3回施工規定事業計画変更認可。 11月15日 - 相楽地区第4回施工規定事業計画変更認可。 1994年(平成6年) 1月17日 - アイコムが、ならやま研究パークで新しい研究所の起工式を行う。 1月17日 - 奈良交通木津川台住宅線の木津川台2丁目-木津川台住宅間を延長、高の原駅-木津川台住宅間運行開始。 1月21日 - 相楽地区換地計画が認可される。 サンタ・マリアがホームヘルプサービス事業を始める。 3月10日 - 木津町議会で通称町名を新町名にすることが可決。 3月25日 - 相楽地区換地処分公告・相楽土地区画整理事業が完成。 3月25日 - 相楽地区で通称町名が行政町名となる。 木津町西部出張所が相楽台のプレハブ庁舎に移転。 4月 - 兜台保育園が開園。木津町初の公設民営方式。 4月 - PHP総合研究所研究開発センターの敷地内に松下資料館が竣工。 5月14日 - 高の原駅東口では初めての銀行となる奈良銀行高の原支店が開設。 6月 -「ならやま研究パーク」が開所。 6月9日 - ならやま研究パークで、奈良県内初のシンクタンク「南都経済センター」の研究所の完工式が行われる。 6月21日 - 相楽地区区画整理登記が完了。 7月 - 近鉄高の原駅前派出所が近鉄高の原駅前交番となる。 8月23日 - 相楽土地区画整理審議会委員・評価員感謝状贈呈式が行われる。 9月 - サンタウン仮設駐車場しかなかった近鉄高の原駅北西の用地に「サンタウンほっとスクエア」が開業。 9月20日 - 大和ハウス工業が、関西文化学術研究都市平城地区に総合技術研究所を設立したことを発表。 三輪そうめん山本の、日本初となる手延べそうめんの品質を研究する研究所が、ならやま研究パークで着工。 10月25日 - 関西文化学術研究都市平城地区に建設されていた三笠産業の「ならやま研究所」の建物引き渡しが行われる。 11月24日 - ハイタッチ・リサーチパークのタッチ・ワンセンターホールで相楽土地区画整理事業の完工式が開かれ、関係者ら約200人が出席。関西文化学術研究都市の土地区画整理事業での完工式はこれが初めてであった。
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1990年 - 1994年
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「兵庫エフエム放送」の記事における「1990年 - 1994年」の解説
兵庫県域への民放FM周波数割り当ては郵政省(現・総務省)がラジオ関西を保護する観点から遅れ、1989年(平成1年)にようやく周波数割り当てが行われた。500万人以上の9都道府県で最も遅い県域民放FM周波数割り当てとなった。 旧法人は1990年10月1日に独立局として全国34番目(エフエム大分と同日)に開局した。近畿地方ではFM大阪(1970年4月1日開局)、FM802(1989年6月1日開局)に次ぐ3番目の民放FM局である。 旧法人の開局当時の商号は兵庫エフエムラジオ放送株式会社(ひょうごエフエムラジオほうそう)だった。当初の愛称は「Kiss-FM」であり、1994年9月まで「KOBE」が付いていなかった。。開局当時はパステルカラーの局名ロゴが存在した。また開局当初は地域性を考慮して神戸市(現本社)と姫路市(NHK姫路支局内)にスタジオを置く2本社制をとっており、両スタジオは光ファイバーで結ばれどちらからでも放送できるようになっていた。さらに、新神戸駅前の新神戸OPA(現・新神戸オリエンタルアベニュー)内の「オパスタ」(新神戸OPAが新神戸オリエンタルアベニューにリニューアルされた際にスタジオ名も「新神戸スタジオ」→「新神戸アベニュースタジオ」に改称)や、神戸ハーバーランドに設置されたサテライト(オープン)スタジオ「マリスタ」から自社の番組が公開生放送されていた。 開局後から兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)前にかけては、国際都市神戸という特性を活かしたおしゃれなマルチリンガル番組が多数編成されていた。代表的な番組に、世界中に存在する「Kiss」のネーミングを持つFM局の番組を毎日紹介する『Kissing The Groove』(キッシング・ザ・グルーブ)、黒田アーサーと加藤美樹によるカウントダウンプログラム『BANANAFISH DAY〜Kiss World Hot Score』(バナナフィッシュ・デイ キッス・ワールド・ホットスコア)、小曽根真がサウンドクルーを務めた『OZMIC NOTES』(オズミック・ノーツ)、架空のバーを舞台にした人間模様とジャジーな選曲とを織り交ぜたラジオドラマ『バール・サンドリオン』、假野剛彦の『Rendez-vous Cafe』(ランデヴー・カフェ)、フランス語を基調とした浅尾寿美の『ラトリエ・デュ・ソン』などがある。 その後、ラジオドラマを昼番組に取り入れたり、『La Zone』(ラ・ゾーン)というノンストップミュージックゾーンを折り込んだりしたほか、フィラーに近い深夜の『Nocturne』(ノクターン)など、洗練されたステーションイメージが確立していった。1994年には公募サウンドクルーに選ばれた大久保かれんの『Karen's Beat Access』(カレンズ・ビート・アクセス、平日 17:00 - )がスタートした。また、同時期に神戸親局の出力が500Wから1kWへ増力し、受信エリアが拡大された。同年10月の改編では和田誠デザインの新ロゴマークが発表された。それと同時に、それまでジングルでは「89.9 Kiss-FM」或いは「SeaSide Oasis Kiss-FM」(シーサイド・オアシス・キッスエフエム)だったステーションコールが「Kiss-FM KOBE」(キッスエフエムコウベ)「Cinderella Station Kiss-FM KOBE」(シンデレラ・ステーション・キッスエフエムコウベ)とうたわれるようになった。
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1990年-1994年
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「ジ・アンダーテイカー」の記事における「1990年-1994年」の解説
WCW退団後、ハルク・ホーガン主演の映画 "Suburban Commando"(邦題:マイホーム・コマンドー) に出演したことから、ホーガンの紹介でWWFと契約。古い西洋映画の葬儀屋をベースにした怪奇派ヒールのケイン・ジ・アンダーテイカーに変身し、1990年11月22日のサバイバー・シリーズにてテッド・デビアス軍のメンバーとしてデビュー。以降はリングネームをジ・アンダーテイカーと短くして、WWEで活動する。当初は言葉を話さない設定であったためブラザー・ラブがマネージャーに付き、後にWCCW時代からの間柄であるポール・ベアラーに替わった。1991年からはハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアーなどトップ選手のライバルに抜擢され、同年のサバイバー・シリーズではリック・フレアーの介入もあってホーガンを破りWWF世界ヘビー級王座を獲得。これは当時の最年少記録であった。しかし6日後にはフレアーやベアラーの介入も跳ね返したホーガンに王座を取り戻されている。 その後は彼の出現以前のWWF一の怪奇派であったジェイク・ロバーツと組み、ランディ・サベージなどと抗争。1992年にロバーツと仲間割れしてベビーフェイスに転向、4月のWrestleMania VIIIにてロバーツを撃破した。この頃より、骨壷から発せられるパワーが無いと力を発揮できない、というギミックが加わる。同年下期にはカマラとの抗争において、彼の代名詞となる棺桶マッチも実現した。当時のアンダーテイカーは1991年12月から1993年9月までの間はシングル戦では無敗であり、これは1990年代のWWE最長記録となった。 1994年1月、ロイヤルランブルでWWF世界ヘビー級王者ヨコズナとの棺桶戦で圧倒するものの、ヨコズナの配下のヒール・レスラー約30人に襲撃されて敗北。その直後、会場のスクリーンに棺桶内のテイカーが映り、棺桶が爆発すると共にテイカーが「昇天」してしばらく姿を消した(実際には背中の怪我の治療のため)。
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