開発当初
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風船爆弾は、陸軍少将であった草場季喜によれば、1933年(昭和8年)には自由気球に爆弾を懸吊し兵器として使用する着想があったと伝えられる。想定地域は満州東部国境地域で、ソビエト連邦のウラジオストクを攻撃しようという作戦だった。ほぼ同時期に陸軍少佐であった近藤至誠が、デパートのアドバルーンを見て「風船爆弾」での空挺作戦への利用を思いつき、軍に提案をしたが採用されなかったので、軍籍を離れ、自ら国産科学工業研究所を設立し研究を進めた。この時点でコンニャク糊を塗布した和紙「メイジン紙」を使用することは近藤の想定の中にあった。1939年(昭和14年)には関東軍に持ちこまれ、近藤は極秘研究主任となる。1940年(昭和15年)に近藤は病死するが研究は進められ、神奈川県の陸軍登戸研究所で開発されている。試験の責任者は佐藤賢了であった。和紙とコンニャク糊で作った気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカ本土を攻撃しようとする兵器で、満州事変後の1933年(昭和8年)頃から関東軍、陸軍によって対ソ連の宣伝ビラ配布用として研究され、小型の気球爆弾の研究命令は1939年(昭和14年)8月に、ふ号兵器としては1943年(昭和18年)8月に研究命令が出された。 1942年(昭和17年)8月15日、大本営陸軍部は「世界戦争完遂ノ為ノ決戦兵器ノ考案」を陸軍省に要望した。その中に米国本土を攻撃可能な「超遠距離飛行機」「特殊気球(フ号装置)ノ能力増大」という項目があった。前者が超重爆富嶽、後者が風船爆弾である。同年秋頃、太平洋の偏西風を利用して気球をはなち、アメリカ大陸本土を攻撃しようという計画が中央気象台を中心として日本陸軍と日本海軍に持ち込まれ、別個に開発がはじまった。
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開発当初
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1877年7月18日、トーマス・エジソンと彼のチームは蓄音機を発明した。エジソンが明瞭な音の録音と再生に初めて成功したのは12月初頭のことで、手回し式の金属シリンダー表面に溝を掘り、その上に巻きつけた薄いスズ箔に音を記録していた。スズ箔はコスト面でも音質面でも実用的な記録媒体ではなく、粗製の手回し蓄音機は物珍しい玩具として売られたのみで、利益は無いも同然だった。その後エジソンは実用的な白熱電球の開発に移り、録音技術の次なる改良は他の人物により行われた。 ボルタ研究所での7年間の研究と実験を経て、チャールズ・サムナー・テンター、アレクサンダー・グラハム・ベル、チチェスター・ベルは紙筒にワックス(蝋)を塗って記録媒体とし、凹みを付けるのではなく彫り込むことで録音を行った。テンターらの「グラフォフォン(英語版) (graphophone)」システムは1887年に米国議会の議事記録係によって試験的に採用され、後にディクタフォン・コーポレーション(英語版)により商業用に生産された。このシステムがエジソンの代理人の前で実演されると、エジソンはすぐに蓄音機に関する研究を再開した。彼が最終的にたどり着いた記録媒体は全体をワックスで作った分厚い筒で、表面を削ることで何度も再利用することができた。グラフォフォンとエジソンの「パーフェクテッド・フォノグラフ(Perfected Phonograph,「完成形の蓄音機」)」はともに1888年に商品化された。最終的に特許を共有する契約が結ばれ、紙筒にワックスをコーティングする方式は廃止されて、エジソンによる一体成形の蝋管方式が共通の標準フォーマットとなった。 1885年からは録音済みの蝋管が売られ始めた[要出典]。プロによる歌や器楽曲、ユーモラスなモノローグを録音したものだった。当初の顧客はアーケードや居酒屋に設置されていたニッケル・イン・ザ・スロットマシン(最初のジュークボックス)の所有者だけであったが、年を追うごとに蓄音機の個人所有者が多くの蝋管を買って家庭で楽しむようになった。再生装置の心棒に蝋管を付け外しするのは容易だった。初期の管は録音時間が2分間で、約120 rpmの速さで再生された。それらは比較的柔らかい種類のワックスで作られており、何十回か再生すると摩耗してしまった。購入者は専用の仕組みを用いて蝋管の表面を削り、滑らかにしてから再び録音した。 1880年代末から90年代にかけて販売された蝋管型蓄音機には録音機構が付属するのが普通だった。再生だけでなく録音が可能なことは、1890年代の終わりに量販市場に出た安価なディスクレコード型蓄音機との競争において利点となった。ディスク型蓄音機は録音済みの音を再生するためにしか使えなかった。 蓄音機産業のごく初期には、シリンダー型レコードの録音方式で互換性のないものが多数生み出されて競合していた。1880年代後半になって、エジソン・レコーズ、コロムビア・フォノグラフや他の企業により標準方式が決められた。標準の蝋管は長さ 4インチ (10 cm)、直径2+1⁄4インチ (5.7 cm)、再生時間2分間であった。 年月が経つうちに、蝋管のワックスは硬いものに変更され、音質を落とさずに100回以上再生できるようになった。1902年、エジソン・レコーズは硬さを向上させた蝋管のラインを立ち上げ、「エジソン・ゴールド・モールデッド・レコーズ」の名で販売した。このときエジソンが、マスターとなる管から取った型(モールド)を用いて数百本の管を生産するプロセスを発明したことは大きな進歩だった。このプロセスは加工中に金電極から金の蒸気が発生したことから「ゴールド・モールデッド」と呼ばれた。 黎明期の蝋管は一本ごとに生音源から録音しなければならず、記録媒体とされた茶色の柔らかいワックスはわずか20回再生しただけで摩耗してしまった。時代が進むと、再生用と録音用の蓄音機をゴムチューブで連結したり、パントグラフ(英語版)を利用することで蝋管の複製ができるようになった。複製管の音質は最高とはいかなかったが、商品としては十分であった。
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