WCW
WCW(1999 - 2001)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/04 10:23 UTC 版)
「シェーン・ダグラス」の記事における「WCW(1999 - 2001)」の解説
WCWには1999年7月よりベビーフェイスとして再登場し、トリプル・スレットの盟友クリス・ベノワ&ディーン・マレンコ、同じくECW出身のペリー・サターンらと共に、WCWの改革をコンセプトとした新ユニットのザ・レボリューション(The Revolution)を結成する。当初はWCWでの実績のあるベノワがリーダーと目されていたが、マイクパフォーマンスのスキルでダグラスがベノワを圧倒的に凌駕していたこともあり、トリプル・スレット時代と同様に彼がリーダーを務め、リング上でのアジテーションも一手に担当。カート・ヘニング率いるウエスト・テキサス・レッドネックス、ジミー・ハートがマネージメントするファースト・ファミリー、ロード・スティーブン・リーガル&スクワイア・デビッド・テイラーのブルー・ブラッズなど、ヒールのユニットとの抗争に臨んだ。 しかし、ベノワがユニットを離れてからはヒール色が強くなり、レイ・ミステリオ・ジュニアを擁するベビーフェイスのフィルシー・アニマルズとの抗争では女性マネージャーのトリー・ウィルソンを拉致するなど、結成当初のコンセプトは形骸化。2000年1月、ブッカーのケビン・サリバンとの確執でベノワ、マレンコ、サターンがフィルシー・アニマルズのエディ・ゲレロと共にWWFへ移籍したことにより、レボリューションは自然消滅した。 以後、同年4月にエリック・ビショフとビンス・ルッソが立ち上げた「ミリオネアーズ・クラブ対ニュー・ブラッド」の世代闘争アングルではニュー・ブラッド陣営に所属。4月16日にはバフ・バグウェルとのコンビでミリオネアーズ・クラブのリック・フレアー&レックス・ルガーからWCW世界タッグ王座を奪取、同王座への7年ぶりの戴冠を果たした。5月22日にはECW時代からの因縁の相手テリー・ファンクを下しWCWハードコア王者となったが、翌23日にテリー&ノーマン・スマイリーとのハンディキャップ・マッチに敗れ一日天下で終わっている。 2000年下期はビリー・キッドマンと抗争を展開し、2001年1月14日にはジェネラル・レクションを破りUSヘビー級王座も獲得したが、同年3月末にWWFがWCWを買収。翌2002年4月にAOLタイム・ワーナーとの契約が満了するまでの1年間、活動の場を失うこととなった。
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WCW(1990-1993)
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「ケビン・ナッシュ」の記事における「WCW(1990-1993)」の解説
プロバスケット選手としての引退後、アメリカのメジャープロレス団体であるWCWと契約を交わし入団。トレーニング施設のパワープラントにて基礎を学ぶ。1990年8月24日、ハウス・ショーにてドクターX(Dr. X)の名義でデビュー。ビッグバン・ベイダーと対戦するが敗退した。その後、リングネームをスティール(Steel)へと変更し、ブレイドことアル・グリーンとのタッグチーム、マスター・ブラスターズ(The Master Blasters)を結成。9月5日のClash of the Championsにて、ブラッド・アームストロング&ティム・ホーナーのライトニング・エクスプレスを一蹴した。マスター・ブラスターズ結成後、NWA USタッグ王座を保持するスタイナー・ブラザーズ(リック・スタイナー&スコット・スタイナー)と抗争するもタイトル奪取には至らず、1991年3月にチームを解散。 ブレイドとのタッグ解消後はシングルプレイヤーとなり、5月19日のPPV "SuperBrawl" にて、オズの魔法使いをモチーフにした新キャラクターのオズ(Oz)に変身。ケビン・サリバンをマネージャーに、ティム・パーカーから秒殺勝利を収めた。10月、負傷欠場したエル・ヒガンテの代打として新日本プロレスにザ・グレート・オズ(The Great Oz)のリングネームで初来日、獣神サンダー・ライガーともタッグを組んでいる。 その後はカジノの用心棒ビニー・ベガス(Vinnie Vegas)にギミックを変更し、1992年1月12日、Clash of the Championsにてトミー・リッチに勝利。以後、ミスター・ヒューズとの用心棒コンビやダイヤモンド・ダラス・ペイジとのベガス・コネクション(The Vegas Connection)などで活動。5月には新日本プロレスに再来日し、同月17日に大阪城ホールにて橋本真也と対戦した。 1992年はダスティン・ローデスのUS王座やリッキー・スティムボートのTV王座にも挑戦したが、ミッドカードのポジションから脱することはできず、1993年6月にWCWから退団した。
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WCW(1996-2001)
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「ケビン・ナッシュ」の記事における「WCW(1996-2001)」の解説
1996年7月1日、マンデー・ナイトロにてラモンとのジ・アウトサイダーズ(The Outsiders)としてWCWに参戦。当初はビンス・マクマホンの指示でWCWを潰しに来たと称し、初登場時は放送ブースにいたエリック・ビショフに「WWFの悪口を言い触らしているのはてめぇか!」と迫り、ビショフをブースから引きずり出して通路にジャックナイフで叩きつけた。 これはエリック・ビショフの考えた『WWF vs WCW』というアングルに基づいてのものだった。さらに盟友のマイケルズ、ヘルムスリー、そして1-2-3-キッドことショーン・ウォルトマンの参戦を匂わす発言もしていたが、結局このアングルに関連して移籍してきたのはウォルトマンと、既にセミリタイアしていたジャック・ルージョー、契約だけで出場機会がなかったジャン=ピエール・ラフィットだけだった。これはWWFが様々な対抗処置を講じた結果である。また、『ディーゼル』『レイザー・ラモン』のリングネームはWWFが商標登録していたために、アウトサイダーズはそれぞれリングネームを本名の『ケビン・ナッシュ』『スコット・ホール』に戻さなければならなかった。 そしてジ・アウトサイダーズ参戦から1ヶ月足らずで『WWF vs WCW』は頓挫。WCWは急遽アングルの練り直し事態に陥ってしまう。そこで新たに考え出されたアングルがnWoである。もっともこれはホーガンのアイデアだったらしく、当時WCWで浮き上がっていたホーガンが、トップ復帰を狙ってナッシュとホールを抱き込んで結成したものだった。nWoはライバル団体WWFを廃業寸前に追い込むまでの一大ムーヴメントを巻き起こす。 詳細は「ニュー・ワールド・オーダー」を参照 nWo結成後、メンバーが拡大していく中でナッシュはホールとのジ・アウトサイダーズで活動し、WCW世界タッグ王座を保持するハーレム・ヒート(スティービー・レイ&ブッカーT)と抗争を展開し、10月27日のHalloween Havoc 1996にて王座戦を行い勝利してベルトを奪取。 1997年3月5日、新日本プロレスのStrong Style Evolution in 大阪ドームに参戦。ホール&蝶野正洋と組んで武藤敬司&スタイナー・ブラザーズとドリームタッグマッチを行い勝利。 9月1日、Nitroにて復活したフォー・ホースメンに対して、コナン、バフ・バグウェル、シックスとフォー・ホースメンに扮して煽り、挑戦状を叩きつける。そして14日のFall Brawl 1997にて、コナン&バグウェル&シックスとのチームnWoでフォー・ホースメン(リック・フレアー&カート・ヘニング&クリス・ベノワ&スティーブ・マクマイケル)とのウォー・ゲームに勝利した。 1998年5月、nWoは二派に分裂。ナッシュはnWoウルフパックを結成し、ホーガン率いるnWoハリウッドと抗争。12月27日、スターケード1998にてビル・ゴールドバーグと反則裁定一切なしの対決を行い、セコンドに従えていたホールのスタンガンでの攻撃によるアシストにより勝利。ゴールドバーグの連勝記録を173勝で終止符を打ったのと同時にWCW世界ヘビー級王座を獲得。 1999年1月4日、ホーガンとWCW世界ヘビー級王座戦を行い、WCWを崩壊に導いたフィンガーポーク・オブ・ドゥームにてベルトをホーガンへと譲り、nWo復活を宣言。 詳細は「フィンガーポーク・オブ・ドゥーム」を参照 フィンガーポーク・オブ・ドゥームの一件によりnWoは価値を落とし、復活したもののすぐにメインストーリーより除外される。ナッシュはWCW世界ヘビー級戦線で活動し、2000年1月にはブレット・ハート、シッド・ビシャス、ジェフ・ジャレットなどと抗争を展開した。10月よりパワープラントでコーチとして鍛え、台頭してきた若手ユニットであるナチュラル・ボーン・スリラーズの総帥になるも、造反してWCWを乗っ取ろうとしたナチュラル・ボーン・スリラーズに対抗してダイヤモンド・ダラス・ペイジとジ・インサイダーズ(The Insiders)を結成し、WCW世界タッグ王座を巡り抗争した。 2001年1月、スコット・スタイナーとWCW世界ヘビー級王座を巡り抗争。2月18日、Super Brawl Revengeにてスコット・スタイナーと敗者はレスラー引退を懸けたWCW世界ヘビー級王座戦3本勝負を行い敗戦。引退する事になったが、WCWも3月にWWFに買収され崩壊を迎えた。
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WCW(1995-2001)
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「クリス・キャニオン」の記事における「WCW(1995-2001)」の解説
キャニオンは95年にWCWにジョバーとしてデビュー、マーク・スターと "メン・アット・ワーク" というタッグを結成している。キャニオンとマークの2人は建設労働者ギミックで活動し、ジーンズをタイツの変わりに穿いていた。その後96年にチームは解散している。97年にギミックを練り直し、キャニオンはマスクを被ってリングネームをモーティス(Mortis / ラテン語で死を意味する単語)を改め、マネージャーにジェームズ・ヴァンデンバーグを加えてグレイシアを相手に3月のUncensoredでWCW再デビューをはかり抗争を開始している。その後はラスと共闘しつつ5月のSlamboreeや7月のBash at the Beachで対戦しているが、この時期にキャニオンとラスはストーリーラインから外されている。 1998年2月にモーティスはフロック(The Flock)に加入したいとレイヴェンに交渉するがDDPの持つWCWユナイテッド・ステイツ・ヘビー級王座を奪ったらという条件を突きつけられてしまう。中旬にDDPとタイトルを賭けて対戦するが失敗し、レイヴェンにエントランスでDDTを食らってしまう。結果、モーティスのギミックを破棄してキャニオンとしてレイヴェンと抗争を開始する。キャニオンはフロックのサターンとタッグを組むようになるが突如サターンを裏切り、レイヴェンと共闘、フロックに加入している。しかし、9月のFall Brawlでサターンとレイヴェンのコントラ戦を行ない、レイヴェンが敗北したためにフロックは解散してしまっている。フロック解散後もレイヴェンとタッグの活動を続けていたが、キャニオンはうつ病を理由に欠場している。 1999年にレイヴェンとサターンのWCW世界タッグチーム王座の手助けをするために復帰するがレイヴェンとサターンと共闘するのではなく、バンバン・ビガロとダイヤモンド・ダラス・ペイジとでジャージー・トライアッド(Jersey Triad)を結成している。トライアドはサターンとクリス・ベノワのタッグとタッグチーム王座を賭けて抗争を開始するようになり、6月のThe Great American Bashでサターンとベノワ組を破りタッグ王座を獲得している。また、ホストのリック・フレアーより3人でタイトルを防衛できる権利をもらうが、ホストがスティングになるとその権利を奪われてしまい、8月のRoad Wildでハーレム・ヒートに奪われている。これを機にしてキャニオンは再び欠場をしている。 1999年後半にクリス "シャンパン" キャニオン(Chris "Champagne" Kanyon)のリングネームでJ.ビッグスとナイトロ・ガールズのベイビーとカメレオン・ジョーンズを引き連れて復帰している。ギミックもハリウッドに魅了され、女性、高級車、ジャンパンを贅沢に使うようになったキャラクターになり、DDPやビガロと抗争をするようになるが、ブッカーのケビン・サリバンによって解雇されている。 2000年4月にサリバンからビンス・ルッソーにブッカーが変わると共にWCWに復帰をしている。キャニオンはDDPとタッグを組んでいた関係で5月のSlamboreeのメインであるトリプル・ケージ・マッチで、マイク・オーサムがDDPにパワーボムを狙おうとしたところにカットに入るがケージの上から花道に落とされている。6月のGreat American Bashで車椅子に乗って登場し、アンビュランス・マッチで対戦していたDDPとオーサムの試合に乱入、DDPを攻撃している。その後はエリック・ビショフをリーダーとするニュー・ブラッド(The New Blood)に加入すると同時にDDPと抗争を開始するようになる。抗争と同時にキャニオンはDDPの真似をするようになり、リングネームを "ポジティヴィティー" キャニオンに変えたり、長いブロンドのカツラを被るようになったりしていた。その後は髪を伸ばしてブロンドに染め、P.C.Kと書かれたTシャツを着るようにもなった。また、DDPのフィニッシュであるダイヤモンド・カッターも模倣するようになり、キャニオン・カッターの名前で使用するようにもなった。8月のNew Blood Risingでバフ・バグウェルと対戦したのを最後にWCWから離脱をしている。 2001年2月に再度WCWに復帰と当時にDDPとの抗争を開始している。PPVのSuperBrawl RevengeでDDPと対戦して勝利しているが、リマッチをされ負けている。3月になるとアーネスト "ザ・キャット" ミラーと抗争を開始するようになると、外見や入場曲、ガウンを黒いレーザー・ジャケットに変えている。しかし、抗争はWCWがWWFに買収される3月に終了しており、キャニオンはWWFへ移籍することになった。
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