1950年代後半
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『エスポヮール』、『おそめ』が銀座の高級クラブの双璧として覇を競い、時代を代表する超一流の政治家・実業家たちを顧客化した。 “ある一人の客”(白州次郎との説が有力)をめぐる両店マダム同士の意地の張り合いをモデルにした川口松太郎の小説『夜の蝶』が映画化され、流行語にもなった。文化人たちの一部も両店に通いはじめており、店側でもそのことを自店のステイタス向上に利用した側面もあった。「文壇バー」という呼称への認知は広がったが、一部の大作家や売れっ子作家以外の文壇関係者にとって、両店の敷居はまだ非常に高いものであった。
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1950年代後半
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「日本の漫画の歴史」の記事における「1950年代後半」の解説
1950年代後半、物価上昇の影響などで赤本漫画が終焉を迎え、需要はより安価な貸本漫画へ移るようになる。子供の需要が増した貸本屋では、1953年頃から貸本漫画が出始め、市場が成長し、ここへいたり漫画は、紙芝居と並ぶ子供文化の中心となる。漫画家たちは、手作りの一点ものを貸本屋に売って名を売った。この時期の貸本漫画の作家は、戦前からの作家、赤本や紙芝居からの転身、貸本からデビューした者(水木しげるや白土三平)など様々である。 紙芝居、赤本、絵物語、貸本漫画に親しんだかつての子供たちが成長し、個人およびグループで同人誌を発行したり、学校や職場に漫画研究会を創設したりするようになる。また他誌に先駆け、少年雑誌『漫画少年』主催の手塚治虫審査による一般向けの作品公募が開始され、全国の漫画家志望の少年少女がこぞって投稿した。これらの活動を通じてプロ・アマ間の交流が盛んとなった。学生による原稿回覧誌として石森章太郎らによる『墨汁一滴』が知られるほか、東京の大学では1954年の明治大学漫画研究会および早稲田大学漫画研究会の創部をきっかけに、翌年に「大学漫画研究会連盟」が発足した。当時の大雑誌が既存大家の絵物語に占められている中、東京都のアパート・トキワ荘に集まった『漫画少年』の投稿出身者を中心とする若手漫画家たちが、掲載誌を新発の少女漫画誌に求め、情緒性豊かで複雑なストーリー漫画の技術を鍛えていった。 漫画が普及する一方、日本子どもを守る会・中央青少年問題協議会、そして全国のPTAによる「悪書追放運動」が起こった。1955年に運動がピークに達し、東京では手塚治虫『鉄腕アトム』などの漫画本を校庭に集めて「焚書」にするパフォーマンスが行われている。その反面、ファインアートとしての漫画の審査・評価を試みる動きもみられ、1947年には日本アンデパンダン展(日本美術会)に漫画部門が設けられたほか、1951年から1958年にかけては二科展に「漫画部」が開設されている。 そんな中、日本の経済構造が次第に変化し、週に6日勤務して1日休むという決まった労働単位をとる会社員の増加や、週間単位で番組を放送するテレビの普及と共に、生活者の情報意識が変化していき、その需要を満たす週刊誌が次々と登場する。成人向けの週刊誌は、もっぱら風刺やユーモアを表現したナンセンス漫画(大人漫画)の掲載媒体となった。 子供向けの週刊誌として、1959年に、『少年マガジン』(講談社)、『少年サンデー』(小学館)などの週刊漫画雑誌が登場するが、創刊当初は、子供の小遣いで買える価格ではなく、経営的に安定しなかった。業績安定をはかり、購読を継続してもらうため、各作品は、長いストーリーが多くの話数を費やして展開される、当時のラジオドラマにおけるソープオペラをまねた形式によって連載された。赤本・貸本においてまとまったストーリーの読み切り漫画がすでに定着していたため、「紙芝居への逆行」とも揶揄された。この形式は人気に応じて際限なく続けなければならない反面、逆に人気がなくなれば打ち切りとなるという、漫画家にとって多大なストレスと殺人的なスケジュールを強いるものだった。何人かの漫画家が第一線を退いたり急病死したりする中、一部の若手は、アシスタントの雇用による集団制作体制を築いて、これを解決した。 これら大手出版社による週刊雑誌は、上記の学生や若手漫画家たちのデビューや活躍の場となった。週刊雑誌が相次いで創刊され、人気が過熱する一方で、貸本漫画は徐々にシェアを奪われた。1969年末に貸本漫画は事実上の終焉を迎えた。 新聞漫画は、家庭を舞台にした4コマ漫画および、論説漫画(エディトリアル・カートゥーン)が主流となっていく。
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1950年代後半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 09:37 UTC 版)
1950年代、産油国では毎日概算で25,000m3もの天然ガスが「ガスフレア」と呼ばれて燃焼排気処分されていた。一方、1955年には米国での一次エネルギーの25%が国内産の油田随伴の天然ガスで賄われていて、そのためのパイプラインが広がっていた。その当時の英国では国内で採掘された石炭ガスを長年使ってきたが産業の隆盛や生活の向上と共に不足してきた。世界銀行は英国に対して、「中東のガスフレア処分されている天然ガスを液化して運搬する」計画を提案するなど、LNG輸送の必要性は日増しに強まっていた。 1955年、まず英国政府は当時豊富だった米国の天然ガスを英国まで輸送する現実性について研究を行い、その結果、「LNGの海上輸送さえ可能であれば、石炭ガスより安価でカロリーも2倍、将来も有望な天然ガスを米国の海岸に近くの産出地から英国に運び、都市ガスとして利用することは極めて魅力的である。」とされた。 1957年、シェル石油や野党の反対を押し切って、英ガスカウンシルと米コンストック・リキッドメタン社の共同開発計画が承認された。この米コンストックはシカゴのユニオンストックヤード&トランシェット社とコンチネンタル・オイル社、J.J.ヘンリー社(船舶設計会社)の3社の合弁企業であった。 1959年、自立角型タンクのコンチ(Conch)方式で「メタン・パイオニア」が実験船として建造された。
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1950年代後半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 15:33 UTC 版)
「三種の神器 (電化製品)」の記事における「1950年代後半」の解説
1950年代後半、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目が『三種の神器』として喧伝された(p9)。1956年の経済白書が「もはや戦後ではない」と明記し戦後復興の終了を宣言した神武景気開始は1953年で、それ以前は掃除機が代わりに入っていたこともある。 これらのうち最も早く普及したのは白黒テレビで、逆に一番遅かったのは冷蔵庫である。当初テレビは非常に高価であったため、街頭テレビやキャラバン隊を通じて宣伝され、電器店の店頭のみならず銭湯や裕福な家庭には、プロレス中継など人気番組の放映時には近隣住民が寄り合い、一同鑑賞する光景が当たり前のように見られていたが、総合家電メーカーの市場参入による量産効果で低廉化し、1958年の東京タワー竣工とミッチー(ご成婚)ブームを境に爆発的に売れ出した。 白黒テレビ 洗濯機 冷蔵庫
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