隠密剣士
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『隠密剣士』(おんみつけんし)は1962年10月7日から1965年3月28日までTBS系『タケダアワー』枠(毎週日曜19時からの30分枠)で全10部(計128話)に渡って放映された宣弘社プロダクション製作による大瀬康一主演の連続テレビ時代劇。忍者ブームの火付け役ともなった。1964年に東映京都で劇場用映画として2本映画化された。主演・監督はテレビ版と同じ(監督・船床定男)。
注釈
- ^ 本作は漫画映画とは別の期間に上映された。
- ^ 何枚かの板をつなぎ合わせて直径1尺余りの円盤状にし、それを両足に履いて水面上を歩く術。実際には人間1人を浮かせるための浮力が足りず、不可能である。
- ^ 『兵器メカニズム図鑑』によれば、村上水軍が伝えたもので江戸時代後半に模写された図があるが、起源や実際に建造されたかは不明[12]。
- ^ 第三部のクレジットは「仲町武」。
- ^ 第三部のクレジットは「関口政男」。
- ^ 第一部のクレジットは「間野博」、第二部は「真野寛」。
- ^ 第1部の放送開始当日の朝日新聞朝刊テレビ欄の解説記事で「時代劇調、西部劇調のテレビ映画」と紹介されている[20]。
- ^ プロデューサーの橋本洋二は、『宣弘社フォトニクル』の中で東映東京撮影所に移動したと述べているが、当時の報道では国際放映に撮影所を移動すると述べている[29]。
- ^ 本作品以前にも小林から伊上へ『隠密剣士』のオファーが何度か行われていたが、伊上は同作品は自身の財産であるとしてこれを拒否していた[30]。
- ^ TBSプロデューサーの橋本洋二は、本作品について『怪奇大作戦』の時代劇版とイメージしていた[30]。
- ^ 当時の報道では、実際に出演した桜木健一、野村真樹、三善英史以外に、あべ静江、森昌子、桜田淳子らのゲスト出演も予定されていると報じている[29]。
- ^ 1964年10月から1965年9月まで、『隠密剣士』第8部から第10部および『新隠密剣士』第1部を放送。
- ^ 1964年10月から1965年9月まで、『隠密剣士』第8部から第10部および『新隠密剣士』第1部を放送。
- ^ 1964年10月から1965年9月まで、『隠密剣士』第8部から第10部および『新隠密剣士』第1部を放送。
- ^ 第1部から第9部までは1967年9月から1968年3月までの再放送時に放送された[40]。
出典
- ^ 平凡社 1998, pp. 160–161.
- ^ 石橋春海 2013, p. 75.
- ^ a b 宣弘社フォトニクル 2015, pp. 16–19, 「隠密剣士」
- ^ a b c d 岩佐陽一 2001, pp. 138–143, 「小林利雄(宣弘社・会長)かく語りき PART III」
- ^ 石橋春海 2013, pp. 75、78.
- ^ a b c 石橋春海 2014, pp. 44–51, 「1962 隠密剣士」
- ^ 岩佐陽一「第1章 昭和30年代 1955-1964 隠密剣士」『昭和特撮大全 蘇る伝説のヒーローたち』三才ブックス、2008年7月1日、ISBN 978-4-86199-133-2、51-53頁。
- ^ 平凡社 1998, p. 165.
- ^ 『全怪獣怪人』 上巻、勁文社、1990年3月24日、41頁。ISBN 4-7669-0962-3。C0676。
- ^ 石橋春海 2014, p. 45, 「制作現場「隠密剣士」1 あのとき私は 野木小四郎(元スタント&制作進行)」.
- ^ 石橋春海 2013, p. 77.
- ^ 出射忠明「潜水艦のルーツ」『兵器メカニズム図鑑』グランプリ出版、1987年10月12日、67頁。ISBN 4-906189-65-2。
- ^ 平凡社 1998, p. 171.
- ^ 石橋春海 2014, p. 48, 「制作現場「隠密剣士」2 あのとき私は 浅井清(元宣弘社制作進行)」.
- ^ a b 『世界まる見え!テレビ特捜部 23年目で初めての…SP オーストラリアで大人気な日本の番組とは!?』番組概要ページ goo TVトピック検索(2012年12月22日閲覧)
- ^ 第4部13話での秋草の台詞より
- ^ 第1部3話での鬼場陣十郎の台詞より
- ^ 石橋春海 2013, p. 78, ヒーローを探して 再録インタビュー 牧冬吉.
- ^ a b 友井 2017, pp. 48–49.
- ^ 『朝日新聞』1962年10月7日付朝刊、9面。
- ^ 石橋春海 2014, p. 51, 「番外編「忍者ものがたり」」.
- ^ a b 石橋春海 2014, p. 55, 「1965 新隠密剣士」
- ^ 宣弘社フォトニクル 2015, pp. 20–21, 「新隠密剣士」.
- ^ 石橋春海 2014, p. 111, 「宣弘社作品を支えた人々 渡辺邦彦」.
- ^ 友井 2017, pp. 81–82.
- ^ a b 白石雅彦「現場の外側で・一 スポンサー決定」『「ウルトラQ」の誕生』双葉社、2016年1月24日、265-271頁。ISBN 978-4-575-30988-1。
- ^ 宣弘社フォトニクル 2015, p. 48, 「隠密剣士」.
- ^ a b 石橋春海 2014, p. 89, 「1973 隠密剣士」
- ^ a b c d e 『福島民報』1973年12月22日付夕刊2面。「怪奇サスペンス調へ 『隠密剣士』テコ入れ」
- ^ a b c d e f g h 宣弘社フォトニクル 2015, p. 49, 「隠密剣士 隠密剣士突っ走れ! 誕生エピソード(プロデューサー橋本洋二談)」
- ^ 友井 2017, p. 148.
- ^ a b 石橋春海 2014, 「1973 隠密剣士突っ走れ!」
- ^ 宣弘社フォトニクル 2015, pp. 50–51, 「隠密剣士 突っ走れ!」
- ^ a b 石橋春海 2014, p. 113, 「インタビュー 小林隆吉 宣弘社代表取締役社長」
- ^ a b 『河北新報』1964年7月5日 - 1965年12月26日付朝刊テレビ欄。
- ^ a b c 『河北新報』1964年10月5日 - 1965年9月6日付朝刊テレビ欄。
- ^ a b 『福島民報』1962年10月7日 - 1965年12月26日付朝刊テレビ欄。
- ^ 『福島民報』1965年1月6日 - 1月27日付朝刊テレビ欄。
- ^ 『福島民報』1965年1月31日 - 12月26日付朝刊テレビ欄。
- ^ 『福島民報』1967年9月8日 - 1968年3月8日付朝刊テレビ欄。
- ^ a b 『河北新報』1962年10月7日 - 1974年3月31日付朝刊テレビ欄。
- ^ 『日刊スポーツ』1975年9月6日 - 9月27日付テレビ欄。
- ^ a b 『福島民報』1962年10月7日 - 1974年3月31日付朝刊テレビ欄。
- ^ 『下野新聞 縮刷版』下野新聞社、1979年6月12日。ラジオ・テレビ欄
隠密剣士(荻島真一版)
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TBS(制作局):日曜 19:00 - 19:30 岩手放送:日曜 19:00 - 19:30 山形テレビ(本放送終了後に放送。1975年9月27日が最終回):土曜 7:15 - 7:45 東北放送:日曜 19:00 - 19:30 福島テレビ:日曜 19:00 - 19:30 新潟放送:日曜 19:00 - 19:30
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隠密剣士(大瀬康一版)
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天明7年(1787年)から寛政2年(1790年)にかけての日本各地を舞台として、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の腹違いの兄である松平信千代(大瀬康一)が秋草新太郎と名乗り、公儀隠密として旅をしながら、世の平和を乱す忍者集団との戦いを繰り広げる作品である。 当初は主な視聴者として子供を想定しており、ひばり児童合唱団による主題歌が用いられたり、東映による漫画映画(アニメ)の集中上映期間内に本作のグッズを来館者に配付するなどの宣伝が行なわれた。 第1部は蝦夷編で、アイヌ人と和人(日本人)の葛藤が描かれるなど工夫がみられるが、重厚な内容のせいか不人気であった。第2部から新機軸として忍者との戦いを繰り広げることになる。これにより人気が上昇した結果、視聴者層は子供だけでなく大人に広がり、最盛期には40%近い視聴率を取った。本作の人気は1960年代の忍者ブームを牽引し、映画化や主演を替えてのシリーズ化などが行なわれた。 内容は正統派の時代劇であり、登場するさまざまな忍者や忍術もリアリティがあるが、これらは脚本家・伊上勝のアイディアによるものが多く、本作で彼が培ったものは後年、脚本を担当した『水戸黄門』『仮面の忍者赤影』『仮面ライダー』などに活かされたとされている。また、「忍者の刀の構え方」や「卍型の手裏剣」などは企画担当の西村俊一の考案によるもので、これも後続の忍者物ドラマなどに踏襲された。さらに「水蜘蛛の術」を初めて映像化した作品とされており、こうした映像によって一般的な忍者のイメージを確立したとも言われる。制作進行の野木小四郎は、路線変更にあたって伊賀や甲賀へ赴き、忍術の研究を行ったと証言している。 時代劇でありながら、数人の忍者が乗る「潜水艦」が登場したこともある。これは江戸時代に実際に伝えられていた「龍宮舟」と呼ばれる、木造で船首と船尾に竜の頭部をあしらい、水中を進むとされた船にヒントを得たもので、古文書に依拠している。 『ザ・サムライ』というタイトルで海外でも放送され、ヒットした。小林利雄によると「オーストラリアや東南アジアで絶大な人気を集めました。東南アジアではどこの国でも放映していましたよ」とのことである。制作進行の浅井清は、海外版の吹替に在日米軍横田基地の関係者を集めたと証言している。主人公の名前「新太郎」に基づき、オーストラリアのロックグループ「メン・アット・ワーク」は「Shintaro」という曲を歌い、この曲は1983年のシングル「It's A Mistake」のB面に収録された。 また、2012年4月に日本テレビ系列で放送されたバラエティ番組『世界まる見え!テレビ特捜部』では、当時のオーストラリアでの人気ぶりが紹介された。同国では1964年から放送が開始され、当時の大瀬康一が本作のイベントで訪れたところ、出迎えに約7千人のファンがメルボルン空港へ押しかけ、ビートルズが来た時の人気を上回るほどだったという。同国では忍者の衣裳や手裏剣、プラスチック製の刀など、本作に関するグッズも発売され、その売り上げ額は現在の金額に換算すると10億ドルにのぼり、その後も同国では20年以上に渡って再放送されていたという。
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隠密剣士(荻島真一版)
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『新隠密剣士』から8年後に荻島真一を主演に製作されたリメイク版。1973年10月7日から12月23日まで、大瀬康一版や林真一郎版と同じくTBS系『タケダアワー』枠(毎週日曜19時からの30分枠)で放送された。全12話を放送した翌週から『隠密剣士突っ走れ!』と改題され、継続放送された。 松平信太郎が伊賀の抜け忍・賀夜猿(かやざる)と勇作少年らと諸国を周遊しながら、本多上野介配下の伊賀忍者・赤目の幻幽斉(天津敏)率いる十人衆と戦う。主人公の松平信太郎が徳川家康の長男・信康の落胤であるなど、設定や時代背景も一新された。役は変わったが、牧冬吉と天津敏は引き続き出演している。 実制作は当初東映京都撮影所で行われたが、特撮を絡めた時代劇は京都の作風には合わず、次シリーズである『隠密剣士 突っ走れ!』は東京の国際放映で実制作が行われた。旧作でもプロデューサーを勤めていた西村俊一は、その後『水戸黄門』などの時代劇を手掛けており、脚本に同作品を手掛ける脚本家集団葉村彰子を起用した。企画段階では、宣弘社社長の小林利雄の要望により旧作を手がけた脚本家の伊上勝も参加する予定であったが、西村と折り合いがつかず降板した。 TBSプロデューサーの橋本洋二は、旧作と同じではなく特撮を組み込むなどしないとブレイクは難しいと考えていたが、『水戸黄門』などを成功させていた自負のある西村はこれに反対しており、折り合いがつかなかったという。本作品について橋本は結果的に時代に向かなかったと評している。宣弘社に在籍していた渡辺邦彦は、本作の記者会見をホテルニューオータニで開催したところ、マスコミの出入りが悪かったことから不安視していたところ、不安が的中していたことで『隠密剣士』の時代でないことを痛感したと証言している。
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