ホテルニューオータニ
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ホテルニューオータニ(Hotel New Otani)は、東京都千代田区紀尾井町にあるホテル。
注釈
出典
- ^ 『親会社等の決算に関するお知らせ』(プレスリリース)株式会社テーオーシー、2020年6月29日。 オリジナルの2020年12月3日時点におけるアーカイブ 。
- ^ “ホテルニューオータニグランシェフ 中島眞介さん”. 日本経済新聞. (2021年2月1日). オリジナルの2021年2月1日時点におけるアーカイブ。
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- ^ “ベルボーイ役のミンチ・ムラカミのInstagramの位置情報より” (2017年8月25日). 2022年6月19日閲覧。
- 1 ホテルニューオータニとは
- 2 ホテルニューオータニの概要
- 3 歴代総料理長
- 4 グループホテル
- 5 参考文献
- 6 外部リンク
ホテルニューオータニ
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永野の富士製鋼支配人時代、東京ロール製作所を経営していた大谷米太郎が、圧延用ロールの売り込みに来た。商売熱心かつ信用できる大谷の気風に惚れ、ロールを購入したことを切っ掛けに以降、大谷が亡くなるまで40年間親しく付き合った。 戦後、発足間もない富士製鉄が日本最初の新鋭連続冷延設備付きの大規模薄板生産計画を具体化しようとしている矢先に、大谷が大阪に旧式設備の工場を作ろうとしたため、永野は強く中止を勧めたが、大谷は聞き入れず、結果として富士鉄から仕入れた鉄鋼原料代金4億数千万の支払いが焦げ付いた。やむなく永野が大谷邸を訪問すると、大谷は息子の大谷米一を呼んで手形を切らせ、千代田区紀尾井町の現在ホテルニューオータニが建っている土地を担保に差し出した。ここはかつて伏見宮邸があった場所で、大谷が1951年(昭和26年)に1万8000坪を1億7000万円で買収していた。 この土地を担保として永野が預かっているとき、東急の五島慶太が「米国のヒルトンと組んでホテルを建てたいから売って欲しい。ヒルトン側はそこがホテルに最適だと見ている」と言ってきた。大谷は負債を二年で完済したため、その話は立ち消えになったが、大谷は五島の「ヒルトンがホテルに最適」と言った言葉を信用し、その後自身で、この地にホテルニューオータニを建設した。ただし、東京オリンピック担当大臣だった川島正次郎や東京都庁などホテル対策に血眼になっていた当局者や、大倉喜八郎と大倉系の大成建設にホテル建設を強く要請されたという説もあり、ニューオータニ建設は大谷の積極的な意思ではなかったともいわれる。 工事は大成建設が担当し、通常3年はかかる規模の工事を17ヵ月の突貫工事でやり遂げた。ホテルの建設にあたり、永野が大谷の相談相手になったが、大谷は既に80歳を越す高齢でもあり、素人が競争の激しいホテル業界に乗り出す危険を説いて当初は賛成しなかったが、結局オリンピック前に、国策・国益といった見地から、やむなく賛成したという。永野が富士銀行の岩佐凱実を引き出し、また外国からのお客を招くには外務省と関係の深い人を経営陣に据えることを勧め、日ソ航空機相互乗り入れ問題を一緒に手掛けたことのある門脇季光元駐ソ大使を副社長に招聘した。1964年(昭和39年)9月の同ホテル開業にあたり、永野や稲山嘉寛、市川忍、山本為三郎、瀬川美能留、松下幸之助、水上達三、今里広記、遠山元一、松山茂助、越後正一ら20人の大物財界人が取締役に名を連ねた。20人は一人8万株4000万円を出資した。 ホテル開業後、大谷の前時代的な経営感覚が、ホテル事業に合致しないという意見が関係者から出て、営業の実権は総支配人に就任したパークホテル常務・岡田喜三郎に任された。1970年(昭和45年)大谷が社長を退き、代表権を持つ会長に就任したが、この人事も永野らが説得したものであったという。永野は亡くなるまで同社の筆頭社外役員だった。大谷米太郎の長男・大谷米一は「ホテルニューオータニは永野さんのおかげで建てることができた」と述べている。 ハワイのカイマナビーチホテルは、永野ら日本の財界人が株を95%持って設立した。現地人に経営を任せていたが、経営がうまくいかなくなり、永野が大谷米一に購入を持ち掛け、「ニューオータニカイマナビーチホテル」として今日運営されている。
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