ホテル建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 08:53 UTC 版)
「ベンジャミン・シーゲル」の記事における「ホテル建設」の解説
シーゲルも、以前からラスベガスの賭博利権に参入していたが、ハリウッドから動かず、世話役のセドウェイらが中心に動いていた。シーゲルは当初乗り気がしなかったがハリウッドのスター仲間を呼び込んでパーティを開いたりするうちに熱心に建設の指揮にあたり始めた。アリゾナの大手建設会社デル・ウェブ社が工事を担当したが、戦争の影響で資材調達が難航し、闇市場の高価な資材を調達してコストはオーバーランした。闇市の資材売り屋は、鋼材や銅をシーゲルに売った後、夜中に侵入してそれらを取り返し、夜が明けてから再び売りつけるなどフラミンゴをカモにした。シーゲルは、資材が足りなくなるとハリウッドの映画スタジオに行って製材やパイプを調達したりもした。建物デザインはウィルカーソンの欧州風イメージを元に建築家ジョージ・ヴァーノン・ラッセルが担当したが、途中からリチャード・ステッドルマンに変えた。インテリアデザインはトム・ダグラスが担当した。ハリウッドの洗練された魅力を持ち込もうと何度も設計を変更し、工事は中断・やり直しを繰り返して遅延した。砂漠のオアシス感を出すため世界中の熱帯植物を輸入し、部屋の下水道を独立方式にしたり、ラスベガスでは初となる全館エアコンの導入を試みた(全館エアコン導入は元々ウィルカーソンのアイデア)。高級感を出すため1セット1.1万ドル相当の高価な家具をそろえ、大理石は海外から輸入した。自分のアイデアを実現するため金に糸目を付けず、1946年10月時点で建設費は予算の4倍の400万ドルに達した。 これより先、1946年7月にランスキーは資金不足に対応するためエル・コルテスの権益を76万ドルで売り払い、フラミンゴの建設資金に充当した。同年8月、シーゲルは銀行に借入を打診するが、FBIのフーヴァー長官が銀行にシーゲルの過去を記した手紙を送り、借入をブロックされた。シーゲルは架空の株を売って金を集めた。ニューヨークでコスト問題が議論され、シーゲルの資金横領を疑う声もあったが、ランスキーがシーゲルを擁護した。同年11月、組織は資金の使途明細を出すこと、さもなくば一切の資金集めを停止するようシーゲルに警告した。シーゲルは早く開店して利益を出せば文句なかろうと、作業員を倍にし、残業手当を奮発し、工期短縮ボーナスを設定するなど更に資金をばらまいて工事を急がせ、1946年11月末、宿泊エリアを除くカジノ、ラウンジ、シアター、レストランなどが完成した。 1946年後半から1947年前半にかけて、フラミンゴに対策を講じようとギャング間で何度も会議が開かれた。1946年12月22日の週にハバナで開かれたシンジケート会議でもフラミンゴの件が話し合われたと言われた。同じ頃シーゲルに脅かされてフラミンゴを追い出され、パリに退避していたウィルカーソンが自分の広報誌でシーゲルの贅沢で過剰な出費と「本当のコスト」をすっぱ抜いた。
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