象、天皇に謁見
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3月1日、幕府長崎奉行の三宅康敬から、萩藩、長府藩、徳山藩、広島藩、福山藩、庭瀬藩、岡山藩、竜野藩、姫路藩、明石藩、尼崎藩の中国筋の諸藩の各家老に対し、象はこれから各領内を通行することになるが、特別の警備は無用であるとはいえ、人びとが群集して差しさわりのあることを了解してほしいこと、また象のあゆみは遅いため、宿駅以外にも民家に止宿する場合があること、大概の川は渡るので浅瀬を案内してほしいことなどを記した廻状が出された。この廻状は、先に通行した藩の国家老から受け取り、多くは添え状も付して次の藩へと順達された。3月25日に本州の土を踏んだ象は、4月1日、周防国小郡宿で足を痛めて歩行困難をきたしたので、徳山藩ではすぐさま泊地変更に備えて象小屋を急遽設営している。徳山藩では藩主毛利広豊とその家族、広島藩では藩主浅野吉長、岡山藩では藩主池田継政の生母栄光院などが、象を見物している。備中国岡田藩では、4月12日に藩主伊東長丘が自ら菩提寺の源福寺に赴き、藪のなかから見物している。4月18日、明石を通った象は尼崎領を通行、同日兵庫湊に止宿し、19日には尼崎近傍の別所村に宿泊した。 象は、享保14年4月20日に大坂に入って3日間逗留し、枚方と伏見にそれぞれ1泊して、4月26日には伏見から京都に入った。大坂の年代記『至享文記』には、上方ではどこでも夥しい見物人で、大坂・京の町々は象が通行する通りは2時間も前から通行禁止にしたため、人びとは野中の見物なら構わないと考えて大勢で郊外に繰り出したことが記されている。象の京都での宿泊場所は京都御所に近い浄土宗寺院の清浄華院(京都市上京区)であった。清浄華院には京都所司代の子息たちが象見物に訪れている。京都では、象が睡眠するとき、前足同士を組み合わせ、後足同士を組み合わせた姿で寝ることなどが記録されている。京都では、他の地域と比較しても、ことのほか多数の触が出され、しかも詳細をきわめた。象の通る橋には、新しく造られた三条大橋以外の橋に土砂がかけられた。 文政12年(1829年)に発行された『江戸名所図会』巻之四 明王山宝仙寺の項目によれば、象の入京に先だち、象といえども無位無官の者が参内するのは先例のないことが問題となったため、朝廷は象を「従四位」に叙し、「広南従四位白象」と称されたとされる。牛車宣旨を受けた牛車のウシや、称光天皇が愛玩したヒツジなど御所に動物が入った例は数多くあるが、多くの場合位階を受けたという記録はない。平安時代に書かれた枕草子には一条天皇が愛猫に「命婦のおとど」という名を与え、「かうぶり給いて」と言及されている。かうぶりは叙爵(無位あるいは正六位の者が従五位以上に叙せられること)を指す。しかし、『江戸名所図会』は象の来日より100年経った記述であり、18世紀の史料では象への叙位にふれたものがないため、位階・称号の件について、その仔細を疑問視する向きもある。 象は、京に入り、化粧を施されたうえ、享保14年4月28日(西暦1729年5月25日)に宮中に参内して中御門天皇に拝謁した。天覧に先立って清涼殿台盤所に「象舞台」がつくられ、3双の屏風が立てられた。28日の午前10時頃御所に入った象は、宮中において中御門天皇御覧の際に台盤所の前で前足を折って頭を下げる仕草をした。このようすは福岡藩お抱えの絵師尾形探香『象之絵巻物』にも描かれているが、後代の作である。象舞台における象見学の参加者は、中御門天皇、東宮、関白近衛家久、前関白九条輔実、左大臣二条吉忠、右大臣一条兼香、内大臣鷹司房熙、前内大臣広幡豊忠、前内大臣西園寺致季、大納言花山院恒雅、前大納言阿野公緒、前中納言櫛笥隆成、京都所司代牧野英成、武家伝奏中山兼親・園基香などであった。御覧の場にいた公卿たちも象の姿に感嘆の声をもらし、生まれて初めて象を見た当時27歳の天皇は深く感じ入り、このときの心情を、和歌に詠んだ。天皇は、象が食べものを食べるところも見物した。 午前11時ごろには、象は仙洞御所に入り、天皇の祖父にあたる霊元法皇に拝謁した。象は霊元法皇の前では頭を深く下げ、これは多くの居合わせた人びとに感銘をあたえた。仙洞御所の見物に参加したのは、一条院宮・知恩院宮・妙法院宮らの門跡、前内大臣中院通躬、同じく醍醐冬熙、また三条院公福、烏丸光栄らといった公卿に加え、多くの武家や医師なども見物し、所司代と武家伝奏も御所に引き続き同行した。 中御門天皇時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ 霊元法皇めづらしく 都にきさの唐やまと すぎし野山は幾千里なる 情しる きさのこころよ から人にあらぬやつこの手にもなれきて これもまた この時なりとかきつめて みそむるきさの やまと言の葉 烏丸光栄この国に きさもなつくや さまことに みゆるものから猛からずして 竹の葉を かふ獣のまつやこし 実をはむ鳥もまたん御代にて 天皇、法皇、烏丸光栄のみならず、武者小路実蔭、冷泉為久、中院通躬、三条西公福、久世通夏など、皇族や公卿らもそれぞれ歌を詠んだ。なお、京都在住の儒学者であった伊藤東涯は伏見より入京した象をその日のうちに建仁寺町・山崎町で見物し、記録を残している。また、画家の伊藤若冲は、生涯にわたって象を描いた絵画を多数のこしているが、かれは享保14年に京都で象を実見したのではないかと推測されている。 京都・大坂・江戸の三都では、象に関する出版物が多数刊行された。『象のみつき』(中村三近子)・『象志』(本圀寺塔頭智善院)・『霊象貢珍記』(白梅園)・『詠象詩』(中村三近子)は享保14年5月、『馴象編』(林大学頭榴岡)・『馴象俗談』(井上蘭台)は6月、『三獣演談』(神田白竜子)は7月にそれぞれ刊行されている。
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