象、天皇に謁見とは? わかりやすく解説

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象、天皇に謁見

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 03:03 UTC 版)

広南従四位白象」の記事における「象、天皇に謁見」の解説

3月1日幕府長崎奉行三宅康敬から、萩藩長府藩徳山藩広島藩福山藩庭瀬藩岡山藩竜野藩姫路藩明石藩尼崎藩中国筋の諸藩の各家老対し、象はこれから領内通行することになるが、特別の警備無用であるとはいえ人びと群集して差しさわりのあることを了解してほしいこと、また象のあゆみは遅いため、宿駅以外にも民家止宿する場合があること、大概の川は渡るので浅瀬案内してほしいことなどを記した廻状出された。この廻状は、先に通行した藩の国家老から受け取り多く添え状付して次の藩へと順達された。3月25日本州土を踏んだ象は、4月1日周防国小郡宿で足を痛めて歩行困難きたしたので、徳山藩ではすぐさま泊地変更備えて象小屋急遽設営している。徳山藩では藩主毛利広豊とその家族広島藩では藩主浅野吉長岡山藩では藩主池田継政生母栄光院などが、象を見物している。備中国岡田藩では、4月12日藩主伊東長丘が自ら菩提寺の源福寺に赴き、のなかから見物している。4月18日明石通った象は尼崎領を通行同日兵庫湊に止宿し、19日には尼崎近傍別所村宿泊した。 象は、享保14年4月20日大坂入って3日逗留し枚方伏見それぞれ1泊して4月26日には伏見から京都入った大坂年代記『至享文記』には、上方ではどこでも夥しい見物人で、大坂・京の町々は象が通行する通りは2時間も前から通行禁止したため人びと野中見物なら構わない考えて大勢郊外繰り出したことが記されている。象の京都での宿泊場所は京都御所に近い浄土宗寺院清浄華院京都市上京区であった清浄華院には京都所司代の子息たちが象見物訪れている。京都では、象が睡眠するとき、前足同士組み合わせ後足同士組み合わせた姿で寝ることなどが記録されている。京都では、他の地域比較しても、ことのほか多数の触が出され、しかも詳細きわめた。象の通るには、新しく造られ三条大橋以外の土砂かけられた。 文政12年1829年)に発行された『江戸名所図会巻之四 明王宝仙寺の項目によれば、象の入京に先だち、象といえども無位無官の者が参内するのは先例のないことが問題となったため、朝廷は象を「従四位」に叙し、「広南従四位白象」と称されとされる牛車宣旨受けた牛車ウシや、称光天皇愛玩したヒツジなど御所動物入った例は数多くあるが、多く場合位階受けたという記録はない。平安時代書かれ枕草子には一条天皇愛猫に「命婦のおとど」という名を与え、「かうぶり給いて」と言及されている。かうぶり叙爵無位あるいは正六位の者が従五位以上に叙せられること)を指す。しかし、『江戸名所図会』は象の来日より100年経った記述であり、18世紀史料では象への叙位にふれたものがないため、位階称号の件について、その仔細疑問視する向きもある。 象は、京に入り化粧施されたうえ、享保14年4月28日西暦1729年5月25日)に宮中参内して中御門天皇拝謁した天覧先立って清涼殿台盤所に「象舞台」がつくられ、3双の屏風立てられた。28日午前10時御所入った象は、宮中において中御門天皇御覧の際に台盤所の前で前足折って頭を下げる仕草をした。このようすは福岡藩お抱え絵師尾形探香『象之絵巻物』にも描かれているが、後代の作である。象舞台における象見学参加者は、中御門天皇東宮関白近衛家久、前関白九条輔実左大臣二条吉忠右大臣一条兼香内大臣鷹司房熙、前内大臣広幡豊忠、前内大臣西園寺致季大納言花山院恒雅、前大納言阿野公緒、前中納言櫛笥隆成京都所司代牧野英成武家伝奏中山親・園基香などであった御覧の場にいた公卿たちも象の姿に感嘆の声をもらし、生まれて初めて象を見た当時27歳天皇深く感じ入り、このときの心情を、和歌詠んだ天皇は、象が食べものを食べるところも見物した午前11時ごろには、象は仙洞御所入り天皇祖父にあたる霊元法皇拝謁した。象は霊元法皇の前では頭を深く下げ、これは多く居合わせた人びと感銘あたえた仙洞御所見物参加したのは、一条院宮・知恩院宮・妙法院宮らの門跡、前内大臣中院通躬同じく醍醐冬熙、また三条院公福、烏丸光栄らといった公卿加え多く武家医師なども見物し所司代武家伝奏御所引き続き同行した中御門天皇時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ 霊元法皇めづらし都にきさの唐やまと すぎし野山幾千里なる 情しる きさのこころよ から人にあらぬやつこの手にもなれきて これもまた この時なりとかきつめて みそむるきさの やまと言の葉 烏丸光栄この国に きさもなつくや さまことに みゆるものから猛からずして 竹の葉を かふのまつやこし 実をはむもまたん御代にて 天皇法皇烏丸光栄のみならず武者小路実蔭、冷泉為久中院通躬三条西公福久世通夏など、皇族公卿らもそれぞれ歌を詠んだ。なお、京都在住儒学者であった伊藤東涯伏見より入京した象をその日のうちに建仁寺町・山崎町見物し記録残している。また、画家伊藤若冲は、生涯にわたって象を描いた絵画多数のこしているが、かれは享保14年京都で象を実見したではないか推測されている。 京都・大坂・江戸三都では、象に関する出版物多数刊行された。『象のみつき』(中村三近子)・『象志』(本圀寺塔頭智善院)・『霊象貢珍記』(白梅園)・『詠象詩』(中村三近子)は享保14年5月、『馴象編』(林大学頭榴岡)・『馴象俗談』(井上蘭台)は6月、『三演談』(神田白竜子)は7月それぞれ刊行されている。

※この「象、天皇に謁見」の解説は、「広南従四位白象」の解説の一部です。
「象、天皇に謁見」を含む「広南従四位白象」の記事については、「広南従四位白象」の概要を参照ください。

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