真田氏統治時代とは? わかりやすく解説

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真田氏統治時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/02 15:51 UTC 版)

上田藩」の記事における「真田氏統治時代」の解説

上田武田旧臣であった真田昌幸が、千曲川沿いに上田城天正11年1583年着工)を築いたことから始まる。昌幸は旧主である武田信玄倣って領民善政敷き上田はこの地域における中核的な城下町として成長していった。 昌幸は、武田滅亡後織田信長始まり北条氏徳川氏上杉氏など主家転々と変え最終的に豊臣秀吉家臣となり、徳川家康与力大名となる。 慶長5年1600年)の第二次上田合戦では、西軍与して徳川秀忠軍3万2千を数千の兵で撃退したが、関ヶ原の戦い西軍敗れたため、昌幸・真田信繁幸村父子紀州九度山幽閉され上田城破壊される。 代わって東軍与した嫡男真田信之が父の領地継承、信之は元和2年1616年)に上田移り徳川体制下における上田藩95000石が成立した元和8年1622年幕命によって信之は信濃松代藩移封された。

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真田氏統治時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 03:09 UTC 版)

松代藩」の記事における「真田氏統治時代」の解説

1622年元和8年)に信濃国上田藩より真田信之13万石で入封した後、明暦4年1658年)に3代幸道の相続時に分地沼田領3万石独立( - 1680年改易)し、以後10万石として幕末までこの地は真田家所領として続く。 真田家その出自から外様大名とされることが多いが、幕府における席次帝鑑間詰(譜代大名待遇であった理由として、8代藩主真田幸貫8代将軍徳川吉宗の孫である松平定信実子であること、信之の妻小松姫徳川家康養女本多忠勝の実娘、一説によると徳川秀忠養女)であること等の理由よる。なお、支藩分地)としては沼田藩以外に埴科藩もあったが、後年断絶している。 信之は上田藩時代より蓄財した20万両という大金をもって入封した。このため当初裕福であったが、3代幸道の時代幕府による度重なる手伝普請などの賦役により信之の遺産使い果たしたまた、1717年享保2年松代城下は大火見舞われ復興幕府より1万両を借り受け逆に借財抱えようになった4代信弘は質素倹約を旨とし財政持ち直した。また領内支配従前山中郷、上郷下郷から山中里方2つ再編し、さらに山中の5通(田野口通、新町通、有旅通、茂菅通、吉窪通)と里方の4通(川南通、川東通、川北通、川中島通)に細分化した。5代信安の時代1742年寛保2年松代城下を襲う水害見舞われた(戌の満水 )。この際、再び幕府より1万両を借財千曲川河川改修が行われた。これにより松代城下は水害見舞われなくなった。しかし、再び財政悪化した。信安は河川改修中心となった八郎五郎家老抜擢し家臣給与半知借上年貢前倒し徴収を行うなどの財政再建努めた。しかしこれが家臣反発招き1744年延享元年足軽によるストライキという全国的に極めて稀な事態となった1751年宝暦元年)には不正を行った八郎五郎罷免し、代わって赤穂藩浪人称する田村右衛門浅野家家老であった大野知房の子大野群右衛門同一人物ともいわれる)を勝手方として召し抱え財政再建に当たらせた。しかし、性急な改革農民反発招き同年には「田村騒動」と呼ばれる藩内初の一揆起こった田村もまた汚職行ったとして、同年江戸逃亡したところを捕らえられた。 信安の後、藩主となった幸弘は、1757年宝暦7年家老恩田木工勝手方据え財政再建に当たらせた。木工5年間の在任中、めざましい成果得られなかった。しかし、藩士領民財政再建対す意識改革したということでは、ある程度功績得られといえる。幸弘は1758年宝暦8年藩校文学館」を開いている。 幕末期には8代幸貫が老中として幕政関与している。幸貫は寛政の改革主導した松平定信の子第8代将軍徳川吉宗曾孫に当たる)であり、幸貫以降真田家国主以外で自分領地国主名を名乗れるという特権得ている。また、幕末奇才佐久間象山登用した。1847年弘化4年善光寺地震起こり復旧資金借り入れにより、藩債10万両に達した。 9代幸教は、ペリー浦賀来航時に横浜応接場の警備命じられその後江戸湾第六台場等の警備などを務めたことで、藩財政破綻寸前となった先代幸貫が計画した新たな藩校文武学校」を1855年安政2年)に開校した1864年元治元年)、朝廷から京都南門警衛命じられ藩兵を率いて上洛し、禁門の変が起こると参内して朝廷守りについた明治維新の際、松代藩比較早くから倒幕藩論一致し朝廷から信濃全藩の触れ頭役を命じられた。戊辰戦争には新政府軍参加して多大な軍功挙げたが、膨大な戦費により財政悪化し1870年明治3年)には松代騒動勃発した1871年明治4年廃藩置県により松代県となり、その後長野県編入された。 1884年明治17年華族令施行に伴い藩主家子爵授けられた。(のちに伯爵に陞爵)

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