洪水と治水
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この川は、有史以来洪水に見舞われてきたと言われている。流域における最古の洪水記録は天福元年(1233年)のことで川本町弓ヶ峯八幡宮の縁起にある。江戸時代の記録を集計すると、2・3年に一度洪水に見舞われていたという。記録によれば、1620年から1945年の325年間で洪水は133回あった。ただその対応は現代に入るまで局地的な改修にとどまっていた。 近代においては、1893年(明治26年)、1919年(大正8年)、1943年(昭和18年)に大水害が起きている。終戦直後の1945年(昭和20年)9月枕崎台風では、流域で死者・行方不明者2,091人、家屋全・半壊および流出8,183戸、床上・床下浸水68,536戸の大災害となった(国土交通省公表)。その対応として、1953年(昭和28年)上流域で建設省(現国土交通省)直轄改修事業が始まり、1966年(昭和41年)「江の川水系工事実施基本計画」が策定された。この計画の中枢をなしたのが土師ダムの建設であった。 その改修が進められていた最中、1972年の「昭和47年7月豪雨」で、流域で死者・行方不明者28人、家屋、家屋全・半壊および流出3,960戸、床上・床下浸水14,063戸、多数の橋梁が流出するなど、昭和20年洪水を上回りかつて経験したことのないような被害をだした(国土交通省公表)。これを受けて基本計画が改定され、上流域では激しい反対運動の最中にあった灰塚ダムがこれを機に建設に向けて動き出し、中下流域では土地利用一体型水防災事業が全国に先駆けて推進された。 2007年(平成19年)河川法改正に伴い「江の川水系河川整備基本計画」が策定、2016年(平成28年)その後30年間の計画になる「江の川水系河川整備計画」が策定された。 2018年(平成30年)豪雨による災害に続き、2020年(令和2年)7月の豪雨では、河口から上流90kmにかけて63箇所で増水に伴う浸水被害が発生。被災面積318.4ha、被災家屋126戸。支流の神野瀬川や西城川でも被害が発生した。これらの災害を受けて住民説明会では「国や県の河川整備には限界がある」との説明が行われ、従来の土木工事に加えて江津市と美郷町では住民の集団移転も検討されるようになった。国土交通省ではバックウォーター現象による浸水被害を防ぐため、2021年から部分的に河道を掘削して流量を高める工事を始める。 2021年(令和3年)8月14日の集中豪雨では、江津市桜江町地内の左岸、美郷町地内の右岸、三次市粟屋町市場地区の左岸、同町米丸地区の左岸から氾濫が生じた。 古くからの治水対策が現代まで続いている。ただ2016年時点で上流域に比べて中・下流域の治水対策が遅れている傾向にある。これは洪水時の水位が高くなるため高い堤防が必要となり、その整備に時間がかかるためである。以下流域における特徴的な治水対策を示す。 水害防備林 中下流域の河岸に現在も多くある竹林は、治水目的で意図的に植えられた水害防備林というものである。 これは、奈良時代から平安時代に現在の江津市桜江町甘南備寺を訪れた弘法大師の教えで植えていったという。別説では、同時代に朝廷から江の川の統治を命じられた伊勢山田の笹畑某という人物が山田二郎国久とともに植えていったともいう。江戸時代においても浜田藩が増殖を奨励している。 竹の繁殖力に加えて、中下流域では堤防未整備区間が多いため現在でも多く残る。一部では荒廃が進み水防機能が低下していることから、そして歴史的に存在価値があることから、保全管理が進められている。 [全画面表示] 下(南)から左(西)へ江の川が流れる。右(東)から馬洗川、その途中上(北)から合流するのが西城川。左上が神野瀬川。この地図の左端付近が三次盆地の境目になる。 三次盆地の合流部 三次盆地では複数の支流が合流するため、それぞれの上流で大雨が降ると洪水が起こりやすい特徴があった。その治水対策として16世紀末から堤防工事が行われだしたという。 江戸初期、上流域は広島藩支藩の三次藩が統治した。寛永9年(1632年)初代藩主浅野長治は三次藩館を置き、総曲輪として藩館を囲むように約2kmにわたり堤防を整備した。現在西城川沿い三次市旭町で、旭堤としてモニュメント化されて残っている。 現代に入り護岸整備および河道改修など対策は進んだが、今度は内水氾濫が起こるようになったためそれに対応する排水施設も整備されている。 土地利用一体型水防災事業 中下流域には狭隘な土地に家屋が点在する集落がいくつもある。そのような地で通常タイプの堤防で治水するとなると規模が大きくなり宅地や田畑を潰してしまうことになる。そこで、宅地ごと盛土嵩上げした上で堤防を築くことで集落を維持する土地利用一体型水防災事業が行われるようになった。 江の川流域では全国に先駆けて行われており、明治20年代川本町において民間主導で田畑を地上げして新しい住宅地とした記録が残る。現行の事業は1950年(昭和25年)現在の川本町下三島地区で始まり、本格的に進められたのは「昭和47年7月豪雨」によって壊滅的な被害を受けて以降のことになる。 美郷町吾郷の例 1976年。 2010年。嵩上げ後、宅造と道路整備が行われている。 2018年。向こう側が嵩上げ時に作られた護岸。
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洪水と治水
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最古の洪水記録としては文明14年(1482年)6月に大洪水があったと『日本文化史年表』にある。『厳国沿革志』によると、中世までの小瀬川は現在の大竹市の北山麓に沿って流れ、河口は現在よりも北側にあり、現在の河口である大竹と和木は一続きであったという。その後、繰り返す洪水によって現在の川筋が移行し現在の河口部が形成されたという。 左岸大竹市木野には西国街道の渡し場付近で広島藩初代藩主福島正則により護岸整備(福島堤防)されたとする伝説が残っている。『大竹市史』に「元和十年(1624年)軍夫ニテ調、寛永・享保八年(1723年)繕ひ有り」とあり、大竹市木野一丁目に石組みで築かれた堤防が残っている[要出典]。 藩政時代、河口で長州藩(岩国藩)・広島藩別々に干拓工事を進め、そこで(治水ではなく土地造成のために)堤防が築かれた。この堤防は特に17世紀に暴風雨で決壊した記録が残る。これは当時土木技術が稚拙であったため、決壊し復旧しようとするものの日数がかかったため出来上がらないまま風雨により決壊する、ということが繰り返されたためと考えられている。 廃藩置県後、両国は山口県・広島県となり、両県が川の両岸をほほ二分して別々に近代的な治水事業を行った。ただし(旧)河川法制定前であり県の予算が少なかったため部分的にしか行われておらず、民間個人による護岸整備が多く行われていた。洪水災害はそれ以前と比べて抑止できたものの、大型台風には無意味であった。明治元年(1868年)から昭和20年(1945年)までに発生した風水害は大きなものだけでも20回を超え、対策はその復旧工事にのみ割かれ、抜本的な解決には至らなかった。また流域の山林が乱伐なまま荒廃していたため、災害が発生しやすい環境にあった。 昭和20年(1945年)枕崎台風によって甚大な被害を受けたものの太平洋戦争後の混乱期のため復旧は進まず、そこへ昭和26年(1951年)ルース台風によりまた甚大な被害を受けた。これを受けて山口・広島両県による本格的な改修工事が始まった。また両県は小瀬川ダム工事を建設省に委託し、昭和39年(1964年)6月に竣工した。小瀬川ダムは現在でも両県による共同管理となっている。 昭和39年に現行の河川法制定、昭和43年(1968年)一級河川の指定を受け河口から10.7kmは国(建設省)の直轄管理となった。昭和44年(1969年)建設省により小瀬川水系工事実施基本計画が策定され、それを元に弥栄ダム整備が進められた。 平成17年(2005年)平成17年台風第14号において、流域の羅漢山雨量観測所で観測史上最大の日雨量を記録し、上流域においては大きな被害が発生した。ただ弥栄ダム下流においては洪水調整が機能し被害はほとんどなかった。
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