洪水と治水とは? わかりやすく解説

洪水と治水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 07:36 UTC 版)

江の川」の記事における「洪水と治水」の解説

この川は、有史以来洪水見舞われてきたと言われている。流域における最古洪水記録天福元年1233年)のことで川本町弓ヶ峯八幡宮縁起にある。江戸時代の記録集計すると、2・3年一度洪水見舞われていたという。記録によれば1620年から1945年325年間で洪水133回あった。ただその対応は現代に入るまで局地的な改修とどまっていた。 近代においては1893年明治26年)、1919年大正8年)、1943年昭和18年)に大水害が起きている。終戦直後1945年昭和20年9月枕崎台風では、流域死者行方不明者2,091人、家屋全・半壊および流出8,183戸、床上床下浸水68,536戸の大災害となった国土交通省公表)。その対応として、1953年昭和28年上流域建設省現国交通省直轄改修事業始まり1966年昭和41年)「江の川水系工事実施基本計画」が策定された。この計画中枢をなしたのが土師ダム建設であった。 その改修進められていた最中1972年の「昭和47年7月豪雨」で、流域死者行方不明者28人、家屋家屋全・半壊および流出3,960戸、床上床下浸水14,063戸、多数橋梁流出するなど、昭和20年洪水上回りかつて経験したことのないよう被害をだした(国土交通省公表)。これを受けて基本計画改定され上流域では激し反対運動最中にあった灰塚ダムこれを機に建設向けて動き出し中下流域では土地利用一体型水防災事業全国先駆けて推進された。 2007年平成19年河川法改正に伴い江の川水系河川整備基本計画」が策定2016年平成28年その後30年間の計画になる「江の川水系河川整備計画」が策定された。 2018年平成30年豪雨による災害続き2020年令和2年7月豪雨では、河口から上流90kmにかけて63箇所増水に伴う浸水被害発生被災面積318.4ha、被災家屋126戸。支流神野瀬川西城川でも被害発生した。これらの災害受けて住民説明会では「国や県の河川整備には限界がある」との説明が行われ、従来土木工事加えて江津市美郷町では住民集団移転検討されるようになった国土交通省ではバックウォーター現象による浸水被害を防ぐため、2021年から部分的に河道掘削して流量高め工事始める。 2021年令和3年8月14日集中豪雨では、江津市桜江町地内左岸美郷町地内右岸三次市粟屋町市場地区左岸、同町米丸地区左岸から氾濫生じた古くからの治水対策現代まで続いている。ただ2016年時点で上流域比べて中・下流域治水対策遅れている傾向にある。これは洪水時の水位高くなるため高い堤防が必要となり、その整備時間がかかるためである。以下流域における特徴的な治水対策を示す。 水害防備林 中下流域河岸に現在も多くある竹林は、治水目的意図的に植えられ水害防備というものである。 これは、奈良時代から平安時代現在の江津市桜江町甘南備寺訪れた弘法大師教え植えていったという。別説では、同時代朝廷から江の川統治命じられ伊勢山田の笹畑某という人物山田二郎国久とともに植えていったともいう。江戸時代においても浜田藩増殖奨励している。 竹の繁殖力加えて中下流域では堤防未整備区間が多いため現在でも多く残る。一部では荒廃進み水防機能低下していることから、そして歴史的に存在価値があることから、保全管理進められている。 [全画面表示] 下(南)から左(西)へ江の川流れる。右(東)から馬洗川、その途中上(北)から合流するのが西城川左上神野瀬川。この地図左端付近三次盆地境目になる。 三次盆地合流三次盆地では複数支流合流するため、それぞれの上流大雨が降ると洪水起こりやすい特徴があった。その治水対策として16世紀末から堤防工事が行われだしたという。 江戸初期上流域広島藩支藩三次藩統治した寛永9年1632年初代藩主浅野長治三次藩館を置き、総曲輪として藩館を囲むように約2kmにわたり堤防整備した。現在西城川沿い三次市旭町で、旭堤としてモニュメント化されて残っている。 現代入り護岸整備および河道改修など対策進んだが、今度内水氾濫が起こるようになったためそれに対応する排水施設整備されている。 土地利用一体型水防災事業 中下流域には狭隘土地家屋点在する集落いくつもある。そのような地で通常タイプ堤防治水するとなると規模大きくなり宅地田畑潰してしまうことになる。そこで、宅地ごと盛土嵩上げした上で堤防を築くことで集落維持する土地利用一体型水防災事業が行われるようになった江の川流域では全国先駆けて行われており、明治20年代川本町において民間主導田畑地上げして新し住宅地とした記録が残る。現行の事業1950年昭和25年現在の川本町三島地区始まり本格的に進められたのは「昭和47年7月豪雨」によって壊滅的な被害受けて以降のことになる。 美郷町吾郷の例 1976年2010年嵩上げ後、宅造と道路整備が行われている。 2018年向こう側嵩上げ時に作られ護岸

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洪水と治水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:57 UTC 版)

小瀬川」の記事における「洪水と治水」の解説

最古洪水記録として文明14年1482年6月大洪水があったと『日本文化年表』にある。『厳国沿革志』によると、中世までの小瀬川現在の大竹市北山麓に沿って流れ河口は現在よりも北側にあり、現在の河口である大竹和木一続きであったという。その後繰り返す洪水によって現在の川筋移行し現在の河口部形成されたという。 左岸大竹市木野には西国街道渡し場付近広島藩初代藩主福島正則により護岸整備福島堤防)されたとする伝説残っている。『大竹市史』に「元和十年1624年軍夫ニテ調、寛永享保八年1723年)繕ひ有り」とあり、大竹市木野一丁目石組み築かれ堤防残っている[要出典]。 藩政時代河口長州藩岩国藩)・広島藩別々に干拓工事進め、そこで(治水ではなく土地造成のために)堤防築かれた。この堤防は特に17世紀暴風雨決壊した記録が残る。これは当時土木技術稚拙であったため、決壊し復旧しようとするものの日数かかったため出来上がらないまま風雨により決壊する、ということ繰り返されたためと考えられている。 廃藩置県後両国山口県広島県となり、両県が川の両岸をほほ二分して別々に近代的な治水事業行った。ただし(旧)河川法制定前であり県の予算少なかったため部分的にか行われておらず、民間個人による護岸整備多く行われていた。洪水災害それ以前比べて抑止できたものの、大型台風には無意味であった明治元年1868年)から昭和20年1945年)までに発生した風水害大きなものだけでも20回を超え対策はその復旧工事にのみ割かれ抜本的な解決には至らなかった。また流域山林乱伐なまま荒廃していたため、災害発生しやすい環境にあった昭和20年1945年枕崎台風によって甚大な被害受けたものの太平洋戦争後の混乱期のため復旧進まず、そこへ昭和26年1951年ルース台風によりまた甚大な被害受けた。これを受けて山口・広島両県による本格的な改修工事始まった。また両県は小瀬川ダム工事建設省委託し昭和39年1964年6月竣工した小瀬川ダムは現在でも両県による共同管理となっている。 昭和39年現行の河川法制定昭和43年1968年一級河川指定を受け河口から10.7kmは国(建設省)の直轄管理となった昭和44年1969年建設省により小瀬川水系工事実施基本計画策定され、それを元に弥栄ダム整備進められた。 平成17年2005年平成17年台風第14号において、流域羅漢山雨量観測所観測史最大日雨量記録し上流域においては大きな被害発生した。ただ弥栄ダム下流においては洪水調整機能し被害はほとんどなかった。

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