横浜での教員時代
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中島敦は当時の就職難に苦しみ、前節で述べたように、卒業前の1932年(昭和7年)夏には満州国高級官僚の叔父・比多吉に就職の斡旋を依頼するなどしていた。同年秋には朝日新聞社の入社試験を受けたが二次試験の身体検査で落ちた。結局、翌1933年(昭和8年)4月、祖父の門下生だった田沼勝之助が理事を務める横浜高等女学校(現・横浜学園高等学校)での教員の職を得て、横浜市中区のアパートで単身暮らしとなった。 敦は中島一族の親戚中でも一番の秀才として知れ渡っていたため、一高、帝大出の彼が一介の女学校教師となったことを意外に思った従甥もいた。しかし、当時は大変な就職難で、帝大の同級生38名中、まともに就職が決まった者は敦を含めて3名だけで、まだ恵まれている方だった。 敦の担当科目は国語・英語(および、のちにこれに加えて歴史・地理)で、週23時間の授業を受け持ち、初任給は60円だった。同じ教師陣には、岩田一男(英語学)、安田秀文(国文学)、平野宣紀(国文学)、山下陸奥(国文学)、山口比男(地理学)、杉本長重(国文学)、吉村陸勝(数学)、渡辺はま子(音楽)、野田蘭洞(書道)など、優秀な人材が多かった。直接教えた生徒の中には、後に女優となる原節子もいた。 女学校教員となったこの年の12月11日には橋本タカと結婚(正式入籍)した。タカは4月に郷里の愛知県碧海郡で長男・桓(たけし)を産んでいたが、敦は仕送りだけで面会に来なかったため、たまりかねて赤ん坊を連れて11月に上京し、東京市杉並区の佐々木方に下宿した。敦は教師時代も多趣味な生活を送り、また生徒や同僚からもかなりの人気があった。山岳部生徒の引率で、箱根外輪山や北アルプスに登ったり、同僚らと三国峠、法師温泉などにキャンプに行ったりしたこともあった。 大学院(1年間で中退)や教師時代に「斗南先生」「北方行」「虎狩」などの作品を執筆しており、1934年(昭和9年)7月に、「虎狩」を『中央公論』新人号に応募して、選外佳作10編中に入った。敦はこの結果を氷上英廣に伝え、「虎狩、又してもだめなり。(中略)なまじっか、そんなところに出ないほうがよかったのに。すこしいやになる」と、なまじっか佳作に名を連ねていることを悔しがり応募したことを後悔している。 この25歳のころ、自分の作家としての才能に自信をなくしていた敦は、失意の中、明るいチンドン屋が通り過ぎる夜の酒場の街を歩いていたこともあった。 才能のない私は才能のないことを悲しみながら頭をたれて明るい街をのそのそと歩いていた。私はもう二十五だ。私は何かにならねばならぬ。ところで、一体私に何ができる。うわべばかりの豪語はもうあきあきだ。なかみのない、ボヘミアニズムも、こりごりだ。人に笑われまいとするきがねも、もう沢山だ。 感心したものには、大人しく帽子をぬげ、自信ありげなかおをするのは止めろ。自信も何もないくせに。だが、それは結局、自分の無能を人に示すことになる。何ということだ、何と情けないことだ。一体。才能がないということは、才能のない男が裸にならねばならぬということは、 — 中島敦「断片9」 1935年(昭和10年)4月に釘本久春を介して、京城中学の1年後輩の三好四郎と知り合った。なんとか中島敦を世に出したいと願う釘本や三好の勧めで、翌1936年(昭和11年)6月に、三好から鎌倉に住む深田久弥を紹介された敦は、以後毎週土曜日に深田の自宅を訪ね、作品評を乞うようになった。三好と深田は同じ町内に住み、ともに大佛次郎の世話をしていた写真同好会「写友会」に入っていた仲であった。深田は敦より6歳年上で、同じ一高、東大出身者だった。 教師時代の1935年(昭和10年)には、ガーネット、列子、荘子などを、1936年(昭和11年)にはアナトール・フランス、ラフカディオ・ハーン、カフカ、オルダス・ハクスリー、ゲーテ、アミエル、韓非子、王維、高青邱などを読んだ。また横浜高女の雑誌部が発行していた学内誌『学苑』の編集人となっていた敦は、そこに短い雑文などを寄稿した。 このころに自我の追求や存在の形而上学的不安をテーマにした「狼疾記」「かめれおん日記」(「過去帳」2篇)を起筆し、第1稿を脱稿していたが、「狼疾記」は「北方行」(未完の長編)の草稿から転写・再構成された短編で、その後1938年(昭和13年)から1939年(昭和14年)にかけて完成する。 また、1936年(昭和11年)の小笠原諸島や中国の旅行の際、旅日記的に和歌を詠んだが、その後も音楽会の感想メモも三十一文字の形式で書き留めた。1937年(昭和12年)の冬にも即興的な身辺雑記のさまざまな500首あまりの感興を「和歌でない歌」として綴った。 これらの歌では比較的すらすらと自己表白が可能なことに気づかされた敦が、散文では表現のジレンマに陥り行きづまりがちだった表白がある種の定型や枠づけの中で自在になるということを悟り、のちの外在的な枠づけの形式(先在する古典物語を利用すること)のヒントや啓示になったのではないかという推察もある。 1937年(昭和12年)の1月には早産で誕生した長女・正子がすぐに亡くなってしまうという出来事もあった。以前にも幼い異母弟妹らの夭折を見てきた中島だったが、実子を亡くすという体験もまた、存在の不確かさや運命との対決など中島作品に顕著なテーマに影響をもたらす要因の一つとなる(節「概括」も参照)。 さらに1940年(昭和15年)にはアッシリアや古代エジプトの歴史を勉強しプラトンのほぼ全著作を読んでいた。その後、直接的な私小説の形式から、作品舞台を遠い過去の時代に設定し、自身のテーマを客観視する手法を確立する「文字禍」「狐憑」「木乃伊」「山月記」の「古潭」4篇が1940年(昭和15年)4月までに執筆されていく。 しかし1939年(昭和14年)ごろから発作が激しくなっていた喘息の悪化で教師を続けることが困難となり、1940年(昭和15年)暮れごろから週1、2回の勤務となっていたため、1941年(昭和16年)3月末をもって休職となった。 冬になると発作がひどくなる敦は釘本久春の勧めもあり、「役人になるのは、少しいや」だったが身体にいいだろうという思いと「生活のため」もあり、常夏の南洋に移ることを決めた。この頃、「僕のファウストにする意気込」で、孫悟空や猪八戒の登場する作品「悟浄出世」の執筆を始めていた。 世界がスピノザを知らなかったとしたら、それは世界の不幸であって、スピノザの不幸ではない、という考え方は痩我慢だと思いますか? とにかく、僕は、そんな積りでもって、西遊記(孫悟空や八戒の出てくる)を書いています、僕のファウストにする意気込なり。 — 中島敦「田中西二郎宛の葉書」(昭和16年5月8日) 釘本の斡旋で南洋庁の国語編修書記の就職が正式に決まった敦は、1941年(昭和16年)6月28日に横浜港からパラオに出発するが、父への置手紙には、少し気が進まないといった内容も書き残していた。
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