横浜での教員時代とは? わかりやすく解説

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横浜での教員時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 04:59 UTC 版)

中島敦」の記事における「横浜での教員時代」の解説

中島敦当時就職難苦しみ前節述べたように、卒業前の1932年昭和7年)夏には満州国高級官僚叔父・比多吉就職斡旋依頼するなどしていた。同年秋に朝日新聞社入社試験受けた二次試験身体検査落ちた結局、翌1933年昭和8年4月祖父門下生だった田沼勝之助理事務め横浜高等女学校(現・横浜学園高等学校)での教員の職を得て横浜市中区アパート単身暮らしとなった。 敦は中島一族の親戚中でも一番の秀才として知れ渡っていたため、一高帝大出の彼が一介女学校教師となったことを意外に思った従甥もいた。しかし、当時大変な就職難で、帝大同級生38名中、まともに就職決まった者は敦を含めて3名だけで、まだ恵まれている方だった。 敦の担当科目国語・英語(および、のちにこれに加えて歴史・地理)で、週23時間の授業受け持ち初任給60円だった。同じ教師陣には、岩田一男英語学)、安田秀文(国文学)、平野宣紀(国文学)、山下陸奥国文学)、山口比男(地理学)、杉本長重国文学)、吉村陸勝(数学)、渡辺はま子音楽)、野田洞(書道)など、優秀な人材多かった直接教えた生徒中には、後に女優となる原節子もいた。 女学校教員となったこの年12月11日には橋本タカ結婚(正式入籍)した。タカは4月郷里愛知県碧海郡長男・桓(たけし)を産んでいたが、敦は仕送りだけで面会に来なかったため、たまりかねて赤ん坊連れて11月上京し東京市杉並区佐々木方に下宿した。敦は教師時代多趣味な生活を送り、また生徒同僚からもかなりの人気があった。山岳部生徒引率で、箱根外輪山北アルプスに登ったり、同僚らと三国峠法師温泉などにキャンプ行ったりしたこともあった。 大学院1年間中退)や教師時代に「斗南先生」「北方行」「虎狩」などの作品執筆しており、1934年昭和9年7月に、「虎狩」を『中央公論新人号に応募して選外佳作10中に入った。敦はこの結果氷上英廣伝え、「虎狩又してもだめなり。(中略なまじっか、そんなところに出ないほうがよかったのに。すこしいやになる」と、なまじっか佳作名を連ねていることを悔しがり応募したことを後悔している。 この25歳のころ、自分作家として才能自信なくしていた敦は、失意の中、明るチンドン屋通り過ぎる夜の酒場の街を歩いていたこともあった。 才能のない私は才能のないことを悲しみながら頭をたれて明るい街をのそのそ歩いていた。私はもう二十五だ。私は何かにならねばならぬ。ところで、一体私に何ができる。うわべばかりの豪語はもうあきあきだ。なかみのない、ボヘミアニズムも、こりごりだ。人に笑われいとするきがねも、もう沢山だ感心したものには、大人しく帽子をぬげ、自信ありげなかおをするのは止めろ自信何もないくせに。だが、それは結局自分無能を人に示すことになる。何ということだ、何と情けないことだ。一体。才能がないということは才能のない男が裸にならねばならぬということは、 — 中島敦断片9」 1935年昭和10年4月釘本久春を介して京城中学1年後輩の三好四郎知り合った。なんとか中島敦世に出したいと願う釘本や三好勧めで、翌1936年昭和11年6月に、三好から鎌倉に住む深田久弥紹介された敦は、以後毎週土曜日深田自宅訪ね作品評を乞うようになった三好深田は同じ町内住み、ともに大佛次郎世話をしていた写真同好会「写友会」に入っていた仲であった深田は敦より6歳年上で、同じ一高東大出身者だった。 教師時代1935年昭和10年)には、ガーネット列子荘子などを、1936年昭和11年)にはアナトール・フランスラフカディオ・ハーンカフカオルダス・ハクスリーゲーテアミエル韓非子王維高青邱などを読んだ。また横浜高女雑誌部発行していた学内誌『学苑』の編集人となっていた敦は、そこに短い雑文などを寄稿したこのころ自我追求存在形而上学的不安をテーマにした「狼疾記」「かめれおん日記」(「過去帳」2篇)を起筆し、第1稿脱稿していたが、「狼疾記」は「北方行」(未完長編)の草稿から転写再構成された短編で、その後1938年昭和13年)から1939年昭和14年)にかけて完成するまた、1936年昭和11年)の小笠原諸島中国旅行の際、旅日記的に和歌詠んだが、その後音楽会感想メモ三十一文字形式書き留めた1937年昭和12年)の冬にも即興的な身辺雑記さまざまな500首あまりの感興を「和歌でない歌」として綴った。 これらの歌では比較すらすら自己表白可能なことに気づかされた敦が、散文では表現ジレンマに陥り行きづまりがちだった表白ある種定型づけの中で自在になるということ悟り、のちの外在的づけの形式(先在す古典物語利用すること)のヒント啓示になったではないかという推察もある。 1937年昭和12年)の1月には早産誕生した長女正子がすぐに亡くなってしまうという出来事もあった。以前にも幼い異母弟妹らの夭折見てきた中島だったが、実子亡くすという体験また、存在不確かさ運命との対決など中島作品顕著なテーマ影響もたらす要因一つとなる(節「概括」も参照)。 さらに1940年昭和15年)にはアッシリア古代エジプト歴史勉強しプラトンのほぼ全著作読んでいた。その後直接的な私小説形式から、作品舞台を遠い過去時代設定し自身テーマ客観視する手法確立する文字禍」「狐憑」「木乃伊」「山月記」の「古潭」4篇が1940年昭和15年4月までに執筆されていく。 しかし1939年昭和14年)ごろから発作激しくなっていた喘息悪化教師続けることが困難となり、1940年昭和15年暮れごろから週1、2回の勤務となっていたため、1941年昭和16年3月をもって休職となった。 冬になると発作ひどくなる敦は釘本久春勧めもあり、「役人になるのは、少しいや」だったが身体にいいだろうという思いと「生活のため」もあり、常夏南洋に移ることを決めたこの頃、「僕のファウストにする意気込」で、孫悟空猪八戒登場する作品悟浄出世」の執筆始めていた。 世界スピノザ知らなかったとしたら、それは世界の不幸であってスピノザの不幸ではない、という考え方は痩我慢だと思いますか? とにかく、僕は、そんな積りでもって西遊記孫悟空八戒出てくる)を書いています、僕のファウストにする意気込なり。 — 中島敦田中西二郎宛の葉書」(昭和16年5月8日) 釘本の斡旋南洋庁国語編修書記就職正式に決まった敦は、1941年昭和16年6月28日横浜港からパラオ出発するが、父への置手紙には、少し気が進まないといった内容書き残していた。

※この「横浜での教員時代」の解説は、「中島敦」の解説の一部です。
「横浜での教員時代」を含む「中島敦」の記事については、「中島敦」の概要を参照ください。

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