東京進出後
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2004年5月に、『LOOSER〜失い続けるアルバム』で初めて東京での公演を行い、TEAM NACSとして東京に初進出を果たす。当時は「東京地方公演」と称していた。これについて森崎は「東京でやるのが怖かった。僕らはライバルのあまりいない北海道でやっていた“こそこそグループ”でしたから。プレッシャーから解放されたくて、『修学旅行気分でディズニーランドに寄って帰ります』なんて言っていた」と振り返っている。 また、2004年12月15日に、大手芸能事務所・アミューズと業務提携を行い、以後は道内の仕事はCREATIVE OFFICE CUE、道外の仕事はアミューズが手掛ける形となる。アミューズとの提携直前には、鈴井亜由美(当時)が、「これからは全国を相手にした仕事をしてもらいます」と告げたところ、東京で本格的に役者の仕事をすることに前向きな覚悟を示すメンバー達の中で、大泉は「ぬるま湯にいたいのに芸能界なんて熱湯みたいな世界に行くのは絶対に嫌だ」と拒否した。しかし、「北海道の成功例を作って欲しい」と再説得したところ納得したという。 アミューズとの業務提携後の初事業として、「色々な人に見せたい」というアミューズ会長の大里洋吉の思いから、同年12月21日、22日には、日本青年館で『LOOSER〜失い続けるアルバム』の東京アンコール公演を行う。 また、大泉が、2005年1月から3月まで放送された、フジテレビ制作の『救命病棟24時(第3シリーズ)』にて、キー局制作のテレビドラマに初出演。以降、メンバーが、東京のキー局制作のテレビドラマや、映画などに出演するなど、全国的に活動するようになった。また、2005年4月から8月には『COMPOSER〜響き続ける旋律の調べ』で初めて全国ツアー公演を行う。 一方で、『LOOSER〜失い続けるアルバム』では、東京進出へのプレッシャーを感じ、芝居作りが楽しめなくなっていた。そして、『COMPOSER〜響き続ける旋律の調べ』と、『HONOR〜守り続けた痛みと共に』(2007年)では、東京進出によって、東京の他の劇団の舞台を見たり、ドラマや映画で技量や表現力が格上の俳優と共演したことで、舞台の質を上げなければいけない感じるようになっていた。また、舞台の公演を関係者に見てもらい、ドラマや映画の役を取らなければいけないという考えがあり、全員を目立たせ、おいしいシーンをつくらなければいけなかった。それぞれが脚本に対し、意見を述べるようにもなった。一方で、メンバーに駄目出しされることを受け入れらないとも思っていた。そのため、東京進出への葛藤やメンバー同士の嫉妬もあり、メンバー同士の関係が揺れ、「芝居を打つほど仲が悪くなる」と自嘲する程に舞台の制作過程で衝突することが増えるようになった。 そして、空気を変えようと、『下荒井兄弟のスプリング、ハズ、カム。』(2009年)では、大泉が自ら名乗り出て脚本・演出を手掛けたが、稽古では過去最悪の空気が流れてしまった。それにより、解散や脱退を考えた時期もあり、何度も解散の危機はあったという。そうした中で、月に1度メンバーが集まる『ハナタレナックス』のロケは、「人間関係がうまくいかない時期も集まらないといけない。NACSが続いていく上でいい機会になっている」と『ハナタレナックス』のエグゼクティブ・プロデューサーである杉山順一は述べている。 そのため、『COMPOSER〜響き続ける旋律の調べ』から『下荒井兄弟のスプリング、ハズ、カム。』までは2年の間隔で公演を行っていたが、2年の間隔では、劇場の予約を取るために、公演の終了後すぐに、次の公演を考えなければいけないということから、長く続けるためとして、2012年の『WARRIOR〜唄い続ける侍ロマン〜』以降は3年の間隔で舞台の公演を行うようになった。また、メンバーが脚本・演出をすると揉めるということから、『WARRIOR〜唄い続ける侍ロマン〜』では脚本を初めて外部に委託することになり、宇田学を起用した。次の『悪童』(2015年)では脚本に古沢良太・演出にマギーを起用し、脚本と演出の両方を外部に委託。『悪童』での外部による脚本・演出については、安田は、これまで脚本がセリフも構成も変えていたことを踏まえ、「脚本を変えることは、個々のエゴが出るし、僕は役の幅を狭めるんじゃないか。何度も稽古を重ねるうちに、『ああ、こういう意味だったんだ』と言葉が自分のものになっていく。自分の感性だけを押し通していたら、しょせん井の中の蛙じゃないか。だから、(脚本を)受け入れることは絶対に必要だし、『悪童』ではそれができるんじゃないか」「東京に出て経験を積み、仕事に向き合って、いろいろなものを見た。それを経て、『じゃあチャレンジしてみようよ』というのが『悪童』だ」とも話していた。また、安田は「最終的には森崎さんの脚本・演出でやりたい。TEAM NACSを作った彼のもとでずっと一緒にいたいと僕は思っているし、他のメンバーもそう思ってくれているんじゃないでしょうか」と話している。以降も『PARAMUSHIR〜信じ続けた士魂の旗を掲げて』(2018年)では、脚本を林民夫が、『マスターピース〜傑作を君に〜』(2021年)では、脚本を喜安浩平・演出をマギーが担当している。 また、2012年には、北海道放送(HBC)製作により、TBS系で連続主演ドラマ『スープカレー』が放送された。 結成20周年を迎えた2016年頃からはメンバー全員がNACSとして半永久的に活動を継続する意向を示しており、マスコミの取材においても「お客さんが求める限り解散はない」と断言する機会が増えた。森崎は「最年少の音尾が80歳になる2056年までは解散せずに続けたい」と話している。 2021年には結成25周年を迎え、WOWOWで『がんばれ!TEAM NACS』が放送された。
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東京進出後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:21 UTC 版)
1991年、吉本の若手コンビ6組で構成されるユニット「吉本印天然素材」に加わり東京進出。1992年には第13回ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞を受賞、頭角を現す。程なくして当時人気番組であった『ねるとん紅鯨団』(フジテレビ系)の芸能人大会にコンビで出演した頃から人気・知名度が急上昇。 1992年に『新しい波』から選抜され、1993年には『とぶくすり』が放送開始。 1994年、「天素」から脱退。理由としては岡村曰く「ミーハーな女性ファンの多さに危機感を持った」とのこと。その後、本格的に活動拠点を東京へ移す。東京本格進出1年目の1994年には放送時間こそバラバラなものの、『ナインティナインのオールナイトニッポン』『ぐるぐるナインティナイン』『ジャングルTV 〜タモリの法則〜』と関東放送番組3つのレギュラーを務めた。途中で『銀BURA天国』のメインMCにも抜擢されていたが、とぶくすり内の「うのうの団」ですぐ終わったと述べていた。 1995年に『森田一義アワー 笑っていいとも!』のレギュラー、『めちゃ2モテたいッ!』『ASAYAN』が放送開始。1996年10月に『めちゃ2イケてるッ!』が放送開始。1997年〜1999年『ナイナイナ』放送開始。このうち、『ナインティナインのオールナイトニッポン』『ぐるナイ』『めちゃイケ』の3番組については以後15年以上続くロングランの番組となっている。 1999年にはゴロ合わせで「ナイナイの年」と銘打ち、映画出演や多数のライブイベントなどを精力的に熟した。 2004年、中居正広と共に『FNS27時間テレビ めちゃ2オキてるッ! 楽しくなければテレビじゃないじゃ~ん!!』の総合司会を務めた。岡村はこの番組の企画においてボクシングに挑戦、本番では具志堅用高と対戦した。 2010年、岡村が7月15日から体調不良を理由に休養を発表。休養期間中のコンビ活動は休止となり、レギュラー番組には矢部が単独で出演していた。岡村は約5ヶ月後の11月27日放送(24日収録)の『めちゃ²イケてるッ!』にて復帰。以後はその他の番組にも順次復帰を果たしている。 2011年2月26日放送『めちゃイケ』ナインティナイン結成20周年記念SP内で、宣材写真を撮り直した。 2011年6月5日放送『爆笑!大日本アカン警察2時間スペシャル』で、ダウンタウン(松本人志・浜田雅功)と14年ぶりの共演を果たす。 2013年3月27日、矢部が予てから交際していた元TBSアナウンサーでフリーアナウンサーの青木裕子と入籍。 2014年9月25日、『ナインティナインのオールナイトニッポン』終了、20年半と長い歴史に幕を閉じたとともに歴代最長記録を保持している。翌週10月2日から岡村のみとなり『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』が放送開始。 2015年、『FNS27時間テレビ めちゃ2ピンチってるッ! 1億2500万人の本気になれなきゃテレビじゃないじゃ〜ん!!』(フジテレビ系列)の総合司会を中居正広と共に務めた。 2018年3月31日、『めちゃイケ』放送終了。これによりコンビでのレギュラー番組は単発を除けば『ぐるナイ』のみとなった。 2020年5月14日、『ナインティナインのオールナイトニッポン』放送再開。コンビ結成30周年を迎える。 2020年9月10日の 『ぐるぐるナインティナイン 2時間SP』で、15年ぶりにネタを披露。 2020年10月22日放送の『ナインティナインのオールナイトニッポン』内で、岡村が30代の一般人女性との結婚を報告した。
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東京進出後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:17 UTC 版)
2004年5月にTEAM-NACSの第10回公演として行われた舞台「LOOSER〜失い続けてしまうアルバム〜」のサンシャイン劇場での東京公演で、俳優として本格的に東京に進出(当時31歳)。 東京に進出した理由としては、2002年に『水曜どうでしょう』のレギュラー放送終了したことで、仕事を続けていけるのかと不安になり、また、北海道での仕事に閉塞感を覚えていたことに加え、北海道ロケの映画で東京から来た俳優よりも格下の扱いを受けたことにショックを感じたのが東京進出の一因だった。一方で、「東京の芸能界は怖い。すぐ消えちゃうことになる」と不安もあったが、鈴井貴之の「大きな船でいきなり広い海の真ん中に出ていくわけじゃない、ゆっくり手漕ぎボートで出ていって、何かあればまた岸に戻って来られるんだから」という言葉に安心し、上京を決心。同年12月には、大手芸能事務所であるアミューズと業務提携を行い、その後は、道内の仕事はCREATIVE OFFICE CUE、道外の仕事はアミューズが手掛けている。 2005年に『救命病棟24時』(フジテレビ)にて、全国ネットの連続ドラマ初出演。以後、『小早川伸木の恋』(フジテレビ)、『ハケンの品格』(日本テレビ)など、数多くのドラマに出演。特に『ハケンの品格』では準主役ということで注目度が高まり、北海道(札幌テレビ)での視聴率が関東地区や関西地区よりも高く、平均で25%を超える視聴率を獲得した(関東地区での平均視聴率は20.1%だった)。 2009年5月2日、フジテレビドラマプロデューサーの中島久美子との結婚を発表。2人は2005年の『救命病棟24時』がきっかけで知り合い、2006年には初主演ドラマ『おかしなふたり』を手掛け、2008年の『ロス:タイム:ライフ』出演時の再会以降交際していた。大泉は中島について「未熟な私を精神的に強く支えてくれ、温かく見守ってくれる方」とコメントした。同年、『赤鼻のセンセイ』(日本テレビ)で連ドラ初主演を果たした。また、TEAM NACSの第13回公演として行われた『下荒井兄弟のスプリング、ハズ、カム。』では脚本・演出も手掛けた(2012年には『親父がくれた秘密〜下荒井5兄弟の帰郷〜』(テレビ東京)としてテレビドラマ化された)。 2010年8月29日、挙式。参加者は親族および友人、事務所関係者や番組関係者などで、司会は『1×8いこうよ!』で共演する札幌テレビアナウンサー・木村洋二が行った。 2011年5月、第一子となる長女が誕生。 同年9月には、札幌・すすきのを舞台とした映画『探偵はBARにいる』が公開され、大泉は探偵役で主演を務めた。翌2012年には、同作で第35回日本アカデミー賞 優秀主演男優賞を受賞。同作は、第2作『探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点』(2013年)、第3作『探偵はBARにいる3』(2017年)とシリーズ化された。『探偵はBARにいる3』でも、第41回日本アカデミー賞 優秀主演男優賞を受賞した。 2013年にはエッセイ本『大泉エッセイ』を発売。日本での累計発行部数は2017年7月時点で約42万部となっている。 2014年、北海道特別"福"知事に任命される。同年、主演映画『青天の霹靂』が公開され、第6回TAMA映画賞 最優秀男優賞を受賞。 2015年、主演映画『駆込み女と駆出し男』が公開され、翌2016年には、第39回日本アカデミー賞 優秀主演男優賞と第58回ブルーリボン賞 主演男優賞を受賞。 2018年からは、NHK総合テレビの音楽番組『SONGS』に番組責任者として出演。全国放送のテレビ番組としては、初のレギュラー番組である。 2019年、日曜劇場『ノーサイド・ゲーム』(TBS)で、ラグビー部のゼネラルマネージャー・君嶋隼人役で主演を務めた。 2020年、『第71回NHK紅白歌合戦』で白組司会を担当。 2021年、『第72回NHK紅白歌合戦』で2年連続で司会を担当。また、同じく北海道出身の細川たかしとのデュエットにより、カラオケの十八番と話す「北酒場」を熱唱した。
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