室町・江戸時代とは? わかりやすく解説

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室町・江戸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 17:06 UTC 版)

金剛峯寺」の記事における「室町・江戸時代」の解説

鎌倉末期から南北朝合一に至るまで日本全土争乱が続く中、大勢となっていた高野山南北朝勢力より協力要請などの働きかけがあったが、高野山一貫して中立保っていたため、南朝後醍醐天皇1334年愛染堂寄進、また南北朝統一後すぐに北朝方の足利尊氏高野山段銭諸役免除寺領への守護不入権利与え手厚く庇護した。その後足利尊氏義満高野参詣し室町幕府とも良好な関係が続く。 高野山教学二分する学侶方勢力宝性院院主宥快は「宝門」、無量寿院院主の長覚は「寿門」という学派組織し応永19年1412年)頃に「応永大成」とよばれる教学組織改編推し進めその結果真言密教教学確立ともなって高野山主導権学侶方あるべきとの風潮高まった。この学侶の二大勢力は、その後塔頭寺院筆頭格として江戸時代まで続き明治時代両院合併し宝寿院となった。しだいに学侶行人との対立深まり寛正5年1464年)には学侶方高野山実務行ってた行人方と合戦が行われた。また、この頃高野聖密教教学から離れて時宗化し、また禁止されていた鳴り物使った踊り念仏鉦叩き別所本拠地離れた所に営まれた聖が集まって修行するための庵や仏堂設けた場所)で行っていたため、それら行為を学侶方から禁止され学侶行人、聖の対立表面化する。またこの頃の聖の中には利潤追求のためだけの宿坊経営高野山利用した商売を行う者、また諸国遍歴していた者による他人の妻・娘をかどわかしたりする問題行為絶えなかったと伝わる。 永正18年1521年)には大火により大塔金堂以下伽藍300余宇、僧坊など3900余宇を焼失し全山壊滅状態となり高野山著しく衰退する高野聖は熱心な諸国遍歴勧進続け弘法大師信仰急速に庶民の間にも広がっていったが、戦国世のため、なかなか伽藍復興には結びつかなかった。そこで高野山は有力大名との間で師壇関係や宿坊契約を結ぶことで、高野山への宝物寄進奥之院への納骨・納髪、石塔建設が盛んとなったこの頃武士の間で高野山信仰広まり戦国大名寄進した子院数多く作られた。例え子院宿坊高室院鎌倉時代創建であるが、小田原北条氏壇越スポンサー)となり、北条氏菩提寺となった。同寺院北条氏領国である武蔵相模伊豆三国布教地域としていた。のち北条氏滅ぶと、当主北条氏直高室院隠棲して生涯終えている。 戦国時代高野山寺領17万石、3僧兵擁す巨大勢力であったため、織田信長標的一つであったが、天正8年1580年)に織田信長謀反起こした荒木村重家臣数人とともに高野山逃げ込んだため、信長家臣三十数名取り調べ高野山へ来たが、行人方山徒足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉働いたという理由誅殺してしまう。激怒した信長畿内巡遊していた高野聖1383人を捉え惨殺し、さらに数万軍勢高野山攻めが行われた。しかし、ほどなく信長本能寺の変倒れたため、高野山取り敢えずの難を免れた。しかし豊臣秀吉は、根来攻め引き続き高野山使者派遣し寺領返還武装解除を迫るなどの条件をだし降伏勧めた当時高野山にいた武士出身の僧・木食応其仲介者となって秀吉武装解除などの服従誓ったため、石高減らされたものの、高野山存続することができた。のちに秀吉応其強く信頼し帰依するようになり、最終的に21000石の寺領が安堵され、秀吉永正18年1521年)に消失した伽藍大塔金堂など25棟の堂宇再建協力し興山寺や母・大政所菩提のために青巌寺豊臣秀次自刃した場所としても知られ現在の総本山金剛峯寺前身である)を建て高野山庇護することとなった応其は、秀吉高野山攻め阻止しただけでなく、秀吉信頼を得、庇護つなげたため、「高野応其にしてならず」と言わしめたと伝わる。 文禄3年1594年徳川家子院蓮華院大徳院という院号与え菩提所宿坊定めたこともあり、諸大名もこれに見習い、また多く有力者高野山の子院と壇縁関係を結び、また奥之院霊屋墓碑供養塔などを建立するようになった。その数は多く徳川家、及び譜代大名大徳院と師壇関係を、その他300程度大名山内寺院と師壇関係を結んだとされる徳川幕府高野山寺領を21000石を安堵したが、その内訳は慶長6年1601年)に得た朱印状寺領安堵状によると、学侶方に9500石の寺領、行人方に11500石の寺領が分け与えられた。しかし聖方には寺領与えられず、家光時代聖方大徳院境内にあった徳川家霊台祭祀料として支給され200石のみであった。この朱印状により、高野山寺領管理は、学侶方行人方分けて任されることとなった。しかし、学侶方宝性院無量寿院門主には十万石の大名格式での江戸へ参勤交代義務づけ、高野山幕藩体制組み込まれることとなったこの頃時宗化していた聖(時宗聖)は大徳院院号権威勢いをまし、学侶行人方と同じ屋形作り破風狐格子の院を構えたところ、行人方反感をかい、慶長11年1606年)に行人方大徳院襲撃し狐格子壊したが、聖方家康訴えたところ、幕府からの裁定下り行人時宗聖方屋造り干渉せぬこと、時宗聖方時宗改め真言宗に帰入することが定められた。この後聖方大徳院聖方留まる者と、行人方転派するものに分かれ事実上高野聖終焉となった。また幕府により遊芸者諸国遍歴する勧進僧厳しく取り締まられ、今までのような高野聖としての役目全うすることが難しくなり、全国遍歴していた聖は、日本全国各地村落にある小堂小庵定着するようになったそのこと全国各地大師堂弘法大使信仰する寺が造られ庶民気軽に先祖供養が行なえるようになった考えられている。 正保3年1646年)の「御公儀一山図」によると山内院家数は最盛期1600年代中頃で、学侶方210院、行人方1440院、聖方120院、客僧42院、その他53院の1865院と記録されている。幕府の力は強大で、元禄高野騒動といわれる学侶方行人方権力闘争結果元禄5年1692年)に幕府裁定下し、従わなかった行人627人を流刑にし、行人方の坊を280坊にまで減らし以後増えることは無く、完全に幕藩体制組み込まれていたことが伺える。元禄年間1688年 - 1704年)の頃から庶民参詣増加したに伴い高野山内に僧侶以外の職人町人多く常住するようになっていた。

※この「室町・江戸時代」の解説は、「金剛峯寺」の解説の一部です。
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