宝寿院
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 16:48 UTC 版)
汲沢山宝寿院願行寺は、『汲沢小史』によると宝亀3年(772年)の創建。当初は宝寿坊と称する庵が現在の伽藍の北に位置する源氏山の上にあったとされる。天正 年間に宝寿坊の住職桂順が手広青蓮寺の末寺として開山、願行上人作の不動明王像を納めたことから、願行寺と称したという。一方、『新編相模国風土記稿』によれば天文23年(1554年)以前、長順により中興開山とされる。また『汲沢山宝寿院願行寺由来』は『皇国地誌』に拠る宝亀説、過去帳内の「当寺開山願行上人」との一節に基づく鎌倉時代説、旧家による明治初期編纂の文書『汲沢往来』 が伝える天正説の3つを紹介している。 本尊の不動明王像には明暦3年(1657年)の銘があり、さらに胎内にも小型の不動明王座像が納入されている。これらの不動明王像について『汲沢往来』は、天正年間のこととして「本尊無故織部本尊丈八寸許り願行上人作不動を納め(後略)」と伝え、さらに明暦3年のこととして鞘仏を作り本尊を御腹籠りとした旨を記すほか、秘仏である本尊像が大山不動と同木であるとの旨を記述しているという。なお、雨降山大山寺本尊の願行上人作不動明王像は、鉄製であり、国の重要文化財にも指定されている一方、享禄5年(1532年)制作の『大山寺縁起絵巻』下巻第9段には、大山寺の開基となった良弁(宝亀4年没)によって「槻」、すなわちケヤキの木から本尊が彫り出されたとの記述がある。昭和56年(1981年)には宝永6年(1710年)以来271年ぶりとなる大開帳が行われた。そのほかに当寺に伝わるものとして、日本独特の守護神であり延宝6年(1678年)造立の三宝荒神立像、文政2年(1819年)建立の木食観正碑などがある。 『汲沢往来』はまた、雨乞い祭祀との関連においてまさかりが淵にも言及しつつ、「宝寿院の不動御丈八寸、願行上人作御腹籠、雨乞の節開扉致、急度雨降申候、青蓮寺様立合ニテ其後扉〆切成後ハ深谷ト汲沢両村境鉞淵ヲ両村立合ニテカ以干す時ハ阿め婦り申候」とも伝えるという。真名本『大山寺縁起』には、大山付近の滝に関し「当山霊所異迹衆矣。二重瀧下有レ瀧。曰二雷瀧一。瀧形如レ瀆吐レ浪。瀧鳴雲起。不崇時而雨。」との記述があり、崇敬を欠くときに雨が降ると伝える。 安永4年(1775年)の奥付が書写され、天保15年(1844年)の年号も入る『相刕鎌倉郡三拾三所順礼哥』と題された文書には、当郡内の三十三観音を経巡る形で、地名、寺名に続いて、山崎光信作の歌がそれぞれ一首添えられているが、宝寿院は第27番札所として挙げられ、蓮華寺との寺名、運慶作十一面観音との仏像名とともに、「有かたや大ひの池水汲人の 心の花の開く蓮華寺」とある。これは『新編相模国風土記稿』の汲沢村の項に挙げられている「観音堂 十一面観音を安ず」に符合するという なお、本文書に三十三観音として挙げられているのは以下の通り。1雪の下 新清水寺、2扇ヶ谷 花光院、3いつみか谷 松岸寺、4桜ヶ谷 向陽庵、5住吉 正覚寺、6こつぼ 報身院、7こつほ 香蔵寺、8西御門 法花堂、9建長寺 飛石山、10けん長寺 千手堂、11山の内 松岡山、12円覚寺 □□□□堂、13市場 かめい堂、14大舟 岡の堂、15かさま 法安寺、16公田 こまかた堂、17本郷 坂中寺、18野葉 浄念寺、19まい岡 桜堂、20まい岡 円福寺、21上倉田 さそう堂、22戸塚 朝日堂、23あくは 観音寺、24飯田 大石堂/寺、25いづみ 正法寺、26中田 いなは堂、27ぐみ沢 蓮華寺、28原宿 浅間堂、29かない 玉泉寺、30たや 大雲庵、31いゝしま 正福寺、32玉縄 仁伝寺、33渡内 慈眼寺。 元禄年間に本堂を焼失するも宝永年間に再建、関東大震災時に本堂が倒壊するも、昭和2年(1925年)に再建。その後、平成元年(1989年)から同5年(1994年)にかけて現在の伽藍が建立された。境内には樹齢180年樹高32mのイチョウおよび樹齢110年のシダレザクラがあり、横浜市の名木古木として指定されている。
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