ロシア革命と戦間期
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戦時中のフランスの親ユダヤ主義と違って戦間期フランスでは、ロシア革命の反響で反ユダヤ主義が高まっていった。1917年2月にロシア革命が始まると、『アクション・フランセーズ』も『リーブル・パロール』も最初は好意的に解説したが、ユルバン・ゴイエは革命はロシアをロシアの人民のためか、それともユダヤ人のために引き渡すのか。ヘブライ人に隷属するフランスとヘブライ人に権力を握られたロシアとに挟まれたヨーロッパにおいて、ドイツの軛から逃れたとしても、さらに屈辱的な隷属に陥るのではないかと解釈した。7月にボリシェヴィキが権力を掌握しようとすると、フランスでは警戒感が強まり、『リーブル・パロール』はユダヤ要因が革命の背後にあるとし、主たる扇動者たちの本名を掲載した。ジュルナル・デ・デバ紙も革命の扇動者たちは本名さえもロシア的ではないとユダヤ人を暗示させて報道した。また、クレマンソーも『ロムアンシェネ』紙でロシア革命主導者ユダヤ人の本名一覧を掲載した。4大日刊紙の一紙『ル・プティ・ジュルナル』もボリシェビキの本名を掲載した。1917年10月に社会主義者マルセル・サンバの『ルール』紙は、イギリスで反ユダヤ報道をしていた『モーニングポスト』から情報を得て、ロシアで革命を行ったユダヤ人は行き過ぎであり、仮名を名乗るユダヤ人を批判した。 11月にボリシェヴィキが権力を掌握すると、フランスの新聞の3分の1はユダヤ人による犯罪として報道した。クレマンソーは愛国主義なしに故郷はないし、故郷なしの民族とは何でありえるだろうか、ドイツ・ユダヤ人はドイツの同胞に唆され、ロシア人の偽名を名乗り、ロシアを非ロシア化しようとしたためポグロムが起きたと10月10日に書いた。独仏協調を主張していたジョゼフ・カイヨーもロシアを転覆したのはユダヤ人であり、ユダヤ人はスキタイ人を支配下に収め、反西洋の運動へ駆り立てた、ユダヤ人は破壊を嗜好し、支配欲が強いと書いた。第一次世界大戦後は反ユダヤ発言を差し控えてきたバレスも「ロシアは消えていく。ユダヤ人がはびこったせいだ。ルーマニアも同じ理由で消えていく」「ユダヤ人はアメリカ合衆国ならびに英国の主となった」と書いた。他方で、『ル・タン』紙は、ユダヤ人は新生ロシアを苦しめているすべての悪を一身に背負わされているとした。 1918年11月11日に第一次世界大戦が休戦すると、フランスでは反ユダヤ主義の芽が吹き、さらにバイエルン、ハンガリーでの共産主義政権の誕生や、フランスでのストライキの怒涛によって鼓舞されていった 1920年5月には新聞各紙が反ユダヤ主義的は報道を繰り返した。パリの『ラントランシジャン』紙はシオニストがウクライナを支配するという「同志ラポポールの報告書」を掲載した。5月17日付『レクセルシオール』紙でルポルタージュ作家ロンドルはモスクワを統治しているのは亡命者、シベリア人、モンゴル人、アルメニア人、アジア人であり、その王はユダヤ人であると主張した。『ル・プティ・パリジアン』はトロツキーことイスラリエットのブランシュテインは、セム人・東洋人の側近に取り巻かれ、東方のナポレオンになろうとしていると報道した。カトリック紙『コレスポンダン』は5月25日に『シオン議定書』を紹介し、『ラントランジャン』紙は5月27日に「ツンダー文書」を掲載した。7月2日にはギュスタヴ・テリーが『ルーヴル』紙で『シオン議定書』を紹介し、『アクション・フランセーズ』も9月27日にモーラスが「ユダヤ人問題」では、ロシア、アメリカの参戦はユダヤ人の影響力によるもので、ドイツがユダヤ的な政体を受け入れるためであったと論じた。1920年末には『両世界評論』でベルノーやタロー兄弟がユダヤ人を批判した。1920年11月には、ペスト感染がポーランドとロシアからの移民ユダヤ人によってもたらされたとパリ市議会で取り上げられ、左派の『ラペル』紙も東方ユダヤ人が疫病をもたらしたと報じた。詩人ファギュスはユダヤ人は反ユダヤ主義の先手を打ってどこかにユダヤ人国家を建設すべきであると述べた。ポール・クローデルは1920年の『辱しめられた神父(Le Père humilié)』で「ユダヤ人に洗礼を施すには大量の水が必要」とし、ユダヤの血を引くキリスト教徒パンセが「水でなく、血で洗礼を」という場面を描いた。 モーラスは1921年5月12日「反ユダヤの普遍政治」を求めて、反ユダヤ勢力の結集を呼びかけた。1921年当時、フランスでは、イギリスはユダヤの支配下にあるという見方が推進力を持っていた。ユダヤ人ジャーナリストのポール・レヴィーは『レクレール』紙5月21日にフランスのユダヤ人は英米の首脳に罠をしかける金融資本家の悪巧みを退けなければならないと述べた。同年、モラス主義者のロジェ・ランブランは『アングロサクソン人のもとでのイスラエルの支配』でイギリスはユダヤの支配下にあると論じた。 1922年、モーラスの支持者であるユダヤ人ルネ・グロスが『ユダヤ人問題をめぐるアンケート調査』を出版し、我々ユダヤ人はフランスという家で人一倍奉仕しなくてはならないため特別法を提案した。作家ジャック・ド・ラクルテルは『シルベルマン』(1922)でユダヤ人シルベルマンの不快なアジア的な顔をしており、続編の『シルベルマンの帰還』(1930)では復讐する悪魔のような男として描いた。 劇作家ジャン・ジロドゥの小説『ジークフリートとリムーザン人』(1922)とその舞台用脚本『ジークフリート』(1928)では、フランスびいきのドイツ人ツェルテンは反共和主義者・反資本主義者でありドイツの復興を目指してユダヤ人を標的にした革命を起こしてユダヤ人ジェノサイドを起こす。しかし、英米からの制裁でツェルテンは追放される。1922年の本ではオイゲン・レヴィーネをモデルとしたユダヤ人リーヴェンは「ドイツは私たち(ユダヤ人)のもの」「ドイツの鷲の嘴は私たちの鼻の形をしている」という。ジークフリートはワイマールドイツの大立者で、素顔はフランス人ジャーナリストのフォレスティエであるが、このモデルはジロドゥの友人でアクション・フランセーズのアンドレ・ドゥ・フレノワだった。1922年にはユダヤ人劇作家ベルンシュタインの『ユディット』が大成功していた。ジロドーはこれに対してユダヤ人たちの手からユディットを奪回しようと試み、『ユディット』(1931)では、傲岸なユダヤ娘がユダヤ人ジェノサイドを計画していたアッシリアの将軍ホロフェルネスを殺害する。メールマンは、この作品は失敗したユダヤ人ジェノサイドを悔やむ内容であるとした。『エグランティーヌ』(1927)では、ユダヤ人銀行家モーセの愛人エグランティーヌが十字軍兵士の末裔の貴族が作るサラダを見て、今まで自分が「肉食獣」であったと気づき、モーセを捨てる。 他方、ジャーナリストのアンドレ・シェラダムは、三国協商加盟国は、ユダヤ=ドイツ組合の国際金融活動と、国際ボリシェビキ運動に挟まれているが、ユダヤ人による世界征服という陰謀は誤謬であり、ユダヤ人は汎ゲルマン主義に抗する組織を創出すべきだと提案した。またベルギーのピエール・シャルル神父は1922年4月に、『シオン議定書』は荒唐無稽で悪意に満ちた偽書であると論じ、またアンリ・デ・パサージュ神父もユダヤ陰謀論を批判し、1927年頃にはフランスのイエズス会は反ユダヤ陣営から撤退した。 人種学者ラプージュは1923年に「いまだ精神生活の始まりの地点にとどまる、これら猿の進化のし損ないども」と述べ、また1926年にはマディソン・グラントの『偉大な人種の消滅』を翻訳した。 1925年、作家ポール・モランは世界中のユダヤ人を溜め込んだ貯水槽は破裂したが、約束の地としてユーラシアが余っていると書いた。同年、作家ブノワは、敗れた敵に一切の譲歩を拒む恐るべき人種と述べた。 ユダヤ系ウクライナ人の作家ネミロフスキーの『ダヴィッド・ゴルデル』(1929年)ではユダヤ人ソイフェルが孤独死をし「善良なユダヤ人ならば誰もが背負っている不可解な運命を最後まで遂げた」と描いた。なお、1942年8月17日にネミロフスキーはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で獄死している。 1931年、カトリック作家ジョルジュ・ベルナノスは『良識派の大恐怖』において、反ユダヤ主義者で有名なエドゥアール・ドリュモンを「祖国の預言者」として称賛した。また、クレマンソーは第一次世界大戦という詐術によって古き良きフランスを解体しようとした悪魔であると決めつけた。同年ベルナノスは「ユダヤ人という小さな獣がアメリカという巨人、無意識の怪物の延髄を貪り尽くし、今度は、脳みそを抜かれたロシアの巨魁に襲いかかる」と書いた。 1933年、作家ジェローム・ジャン・タロー兄弟は『さまよえる雌馬』で、ユダヤ人はツァーリの場所に身を置き、ハンガリー、ミュンヘン、そしてウィーンからハプスブルク家を追放したと書いた。 1933年12月にウクライナ・キエフ出身のユダヤ人による巨額詐欺スタヴィスキー事件が発覚すると、左翼急進社会党政権のショータン・ダラディエ内閣に対してアクション・フランセーズや火の十字団、愛国青年団などの右翼団体が大規模な反政府デモを起こした。国会前のデモ隊が国会内へ侵入し、15人の死者が犠牲者となった2月6日事件が起きた。フランスの2月6日事件は、ムッソリーニのローマ進軍や、ナチスのミュンヘン一揆につながるフランス・ファシズムの大衆運動だった。 1934年、作家マルセル・ジュアンドーは小説『シャミナドール』でユダはキリストの血を金儲けの種にすると書き、また1937年には『ユダヤ人禍』を発表した。 1936年夏、スペイン人民戦線政府への反攻が始まると、『クロワ』紙は「ある日、モスクワから60人のユダヤ人がやってきた」、彼らはスペイン人に自分たちが非常に不幸であると信じ込ませ、スペインをロシアに屈従させた、と報じた。 アクション・フランセーズ筆頭のシャルル・モーラスの後を継いだティエリ・モーニェは1936年に『コンバ』を創刊し、文芸批評家モーリス・ブランショが政治主筆を担当した。ブランショは1936年の「穏健派たちの大いなる情熱」で、ユダヤ人レオン・ブルムの人民戦線と叩くべきときに、右翼エリートはムッソリーニやヒトラーやフランコに欣喜雀躍して戦線逃れする様を批判した。ドイツのラインラント進駐に対して消極的だったフランス政府に対してブランショは、サロー首相は「ヒトラーに対してただちにあらゆる制裁を加えるべきだと神学的憤怒にかられて申し立てる鎖を解かれたユダヤ人どもと革命派の言い分に耳を貸した」し、また政府内ではモスクワやイスラエルの名のもとに「いかがわしい外国人どもが画策している」と非難した。また、1934年2月6日の危機の大衆蜂起を再現すべきだとし、暴力革命を主張した。 マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』(1936)ではユダヤ人スカダの顔立ちは醜いが、眼差しには無限のやさしさがあると書かれた。小説におけるユダヤ人の美化はデュアメルの小説『パスキエ家の記録』(1933 - 1945)においても見出され、この小説ではユダヤ人ジュスタンの名前は「正義の人」という意味に由来し、マルヌ会戦で我々フランス人の救済のために戦死する「救世主」として描かれた。 1936年には、共産党から転向したジャック・ドリオによってファシズム政党フランス人民党が結成された。 作家セリーヌは1938年に「ユダヤ人が、われわれを戦争に駆り立て、しかも同時に、その戦争反対に示す同じ激しい強情さ」「われわれは、ユダヤ人の戦争に行くのだ」と書いた。 1938年12月6日、ヒトラー内閣のリッベントロップ外務大臣が訪仏した時には、フランス閣僚の内、ユダヤ系のマンデルとジャン・ゼーだけがレセプションに招待されず、翌日にフランス外相ボネはユダヤ人問題がフランスにとっても重大であるとドイツ外相に語った。
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