アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とは?

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アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/29 14:20 UTC 版)

(アウシュビッツ収容所 から転送)

座標: 北緯50度2分9秒 東経19度10分42秒 / 北緯50.03583度 東経19.17833度 / 50.03583; 19.17833

世界遺産 アウシュヴィッツ・ビルケナウ
ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所(1940年-1945年)
ポーランド
「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線
「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線
英名 Auschwitz Birkenau
German Nazi Concentration and Extermination Camp (1940-1945)
仏名 Auschwitz Birkenau
Camp allemand nazi de concentration et d'extermination (1940-1945)
登録区分 文化遺産
登録基準 文化遺産(6)
登録年 1979年
備考 負の遺産
公式サイト ユネスコ本部(英語)
地図
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の位置
使用方法表示

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所: Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau)は、第二次世界大戦中に、ヒトラー率いるナチ政権が国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所である。

アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた。周辺には同様の施設が多数建設されている。ユネスコは二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年「負の世界遺産」に認定した。一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開している。

この項では、ビルケナウに限定せず、アウシュヴィッツ全体について述べる。

目次

概要

広範なドイツ統治地域の中心に位置するアウシュヴィッツ。さまざまな国・地域から送られてきた人々の終の地となった(オシフィエンチム博物館展示)
ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)と記されている。Bの文字が反転している(第一強制収容所)
ハンガリーから到着したユダヤ人(1944)
オシフィエンチムの市街地をとりまくように造られた施設群。とりわけ第二強制収容所の規模が大きい
復元された焼却炉(オシフィエンチム博物館展示)

ホロコーストの象徴と言われる「アウシュヴィッツ強制収容所」とは、19401945年にかけて現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外につくられた、強制的な収容が可能な施設群(List of subcamps of Auschwitzに一覧)の総称である。ソ連への領土拡張をも視野に入れた「東部ヨーロッパ地域の植民計画」[1]を推し進め、併せて占領地での労働力確保および民族浄化のモデル施設として建設、その規模を拡大させていった。

地政学的には「ヨーロッパの中心に位置する」「鉄道の接続が良い」「工業に欠かせない炭鉱や石灰の産地が隣接する」「もともと軍馬の調教場であり、広い土地の確保が容易」など、広範なドイツ占領下および関係の国々から膨大な数の労働力を集め、戦争遂行に欠かせない物資の生産を行うのに適していると言える。また、次第に顕著となったアーリア人至上主義に基づいた「アーリア人以外をドイツに入国させない」といった政策が国内の収容所の閉鎖を推し進め、ポーランドに大規模な強制収容所を建設する要因にもなった。労働力確保の一方で、労働に適さない女性・子供・老人、さらには劣等民族を処分する「絶滅収容所」としての機能も併せ持つ[2](参考:ホロコーストホロコースト否認)。一説には「強制収容所到着直後の選別で、70~75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされており、このため正確な総数の把握は現在にいたってもできていない[3]

収容されたのは、ユダヤ人政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ。ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)[4]により規模を拡大。ピーク時の1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。

たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられた。理由として、

  1. ナチスが掲げるアーリア人による理想郷建設における諸問題(ユダヤ人問題など)の解決策が確立されるまで、厳しい労働や懲罰によって社会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは、前段階における解決の一手段として捉えられていたこと。
  2. 領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり、個々の労働者の再生産(十分な栄養と休養をとらせるなど)は一切考慮されなかったこと[5]
  3. 1941年末の東部戦線の停滞に端を発した危急の生産体制拡大の必要性と、戦災に見舞われたドイツの戦後復興および壮麗な都市建設計画など、戦中と戦後を見越した需要に対し、膨大な労働力を充てる必要があったこと

などが挙げられる。

併せて、劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷懲罰や解放直前に数次にわたって行われた他の収容所への移送の結果、9割以上が命を落としたとされる[6]。生存は、1945年1月の第一強制収容所解放時に取り残されていた者と、解放間際に他の収容所に移送されるなどした者を合せても50,000人程度だったと言われている。

すべての強制収容所はヒムラーによってSSの下に集約されており、SSが企業母体[7]となる400以上[8]にも上るレンガ工場はもとより、1941・1942年末以降の軍需産業も体系化された強制収容所の労働力を積極的に活用。敗戦後は、SSのみならず多くの企業が「人道に対する罪」を理由に連合国などによって裁かれた。

経過

初代所長 ルドルフ・ヘス
ヘスの絞首刑台(オシフィエンチム博物館展示)
  • 1940年1月25日 - ポーランド・オシフィエンチム市郊外の強制収容所建設を決定。
  • 1940年5月20日 - 「アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)」[9]親衛隊(SS)全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの指示により、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物を利用して開所。強制収容所における画一的な管理システム、いわゆる「ダッハウモデル」を踏襲している。初代所長は、SS中佐ルドルフ・フェルディナント・ヘス[10]ザクセンハウゼン強制収容所から移送された犯罪常習者30人が、最初の被収容者となった。
    • 6月14日 - ポーランドの政治犯728人が到着。
  • 1941年 - 最初のガス室を備えた複合施設「クレマトリウム1」が第一強制収容所に完成。
    • 10月 - 収容者増加のため、ブジェジンカ村に大規模な「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を建設。
  • 19421944年 - モノビッツ村周辺に、当時のドイツを代表する大企業の製造プラントや近隣の炭鉱に付随する形で、大小合わせて40ほどの収容施設を建設。この施設群は「アウシュヴィッツ第三強制収容所モノビッツ」[11]とも呼ばれる。
  • 1942年1月25日 - ヒムラーは、ドイツ国内のユダヤ人強制労働者(男性10万人・女性5万人)のアウシュヴィッツ移送を命令。
  • 1943年1~3月 - 105,000人を超えるユダヤ人が到着。
  • 1944年4~11月 - 585,000人を超えるユダヤ人が到着。
    • 8月2日 - 第二強制収容所の家族練に収容されていたジプシーに対して最後の処刑が行われる。当日、約3,000人が殺害され、アウシュビッツからジプシーは一掃された。殺害された総数は推定で2万人。
    • 10月7日 -ゾンダーコマンドによる武装蜂起。ガス室を備えた複合施設「クレマトリウム4」を破壊するが、まもなく鎮圧された。
  • 1945年1月27日 - ソ連軍により解放。
  • 1947年4月16日 - 初代所長ルドルフ・フェルディナント・ヘス、アウシュビッツにて絞首刑。
  • 1979年 - 「アウシュヴィッツ強制収容所」として、ユネスコ世界遺産に登録。
  • 2007年6月27日 -世界遺産登録上の名称を「アウシュヴィッツ=ビルケナウ-ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所(1940年-1945年)」に変更。
  • 2009年 - 「働けば自由になる」看板が何者かに盗まれ、のち3つに切断され捻じ曲げられた形で発見される。2011年5月に修復完了。今後は複製品を掲示し、実物は厳重に保管される予定。

  1. ^ 東部併合地域から全てのユダヤ人と300 ~400 万人に及ぶポーランド人を移送し、入れ替わりに20 万のドイツ人を入植させる計画。
  2. ^ アンネの日記」「ハンナのかばん」などが著名。
  3. ^ 到着直後の処分を免れた被収容者には、一人ひとりに管理番号が与えられており、この総数が約40万件とされる。被収容者の30%に番号が与えられたとして、単純にこれらの数字を参考に総数を試算した場合「133万人」となる。25%だとすると「160万人」。しかし、これは仮定的な数値でしかない。
  4. ^ 前記の収容理由以外に、労働者の一般募集も行い、工場などへ派遣していた。労働力不足が顕著になってからは、募集のほかに、強制的に占領地の住民を連行するようになる。
  5. ^ 戦況が悪化して労働力の確保が難しくなると、人道的な観点からではなく、生産を落とさないために労働者の再生産について考慮されるようになるが、同時に食料自給も悪化しており、結局は、より厳しい状況に労働者はおかれるだけであった。
  6. ^ 終戦直後のソ連は「400万人が虐殺された」と発表したが、現在では誇張の可能性が高いと見るむきが強い。ビルケナウ強制収容所跡にある慰霊碑に刻まれた死亡者数は、東西冷戦終結後の1995年に「400万人」から「150万人」に改められ、世界遺産に登録したユネスコの2007年6月28日のリリースには「120万人」と記載されている。近年、客観的な研究結果を踏まえて死亡者総数は減少したが、被収容者総数同様、確定的な数値の把握にはいたっていない
  7. ^ 持ち株会社のドイツ経済企業有限会社(DWB)、ドイツ装備品産業有限会社 (DAW)、ドイツ食糧試験所がSSの運営する企業。ドイツ食糧試験所はダッハウ強制収容所に調味料確保のためのハーブ栽培施設をつくったことでも知られる。
  8. ^ 1940年1月現在の工場数。
  9. ^ アウシュヴィッツ全体を管理する組織が置かれていたため、基幹収容所と呼ばれる。
  10. ^ 1943年12月まで所長として強制収容所を指揮。後任はアルトゥール・リーベヘンシェル。さらにその後任で最後の所長はリヒアルト・ベイアー(戦後、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判で被告となるが収監中に死亡)。
  11. ^ 当初「ブナ収容所」と呼ばれていたが、1944年以降は「モノビッツ収容所」に改称。
  12. ^ 3年後に脱出し、アウシュヴィッツの証言者となったカジミェシ・アルビンも含まれていた。
  13. ^ 戦後、ユダヤ人がイーゲー・ファルベン社に対して起こした損害賠償と慰謝料を求める民事訴訟は、1957年に和解が成立。和解金として3,000万マルクが(このうち2,700万マルクがユダヤ人団体に、300万マルクが非ユダヤ人強制労働者に)支払われている。
  14. ^ BASF社、バイエル社、ヘキスト社の3社に分割された。
  15. ^ 「正面」「正面を向き視線を右上に上げたもの」「横向き」の写真を撮影された。
  16. ^ 「Herbert, Geschichte der Ausländerpolitik, S.154.」では更に細かく分類している。「第一にドイツ人、続いて西欧労働者(フランス人市民労働者に続いてベルギー、オランダ人労働者)、そして続いてドイツと同盟或いは従属関係にある南東ヨーロッパ出身労働者(ハンガリー、ルーマニア、スロヴェニア、セルヴィア、ギリシア、クロアチア)、次にチェコスロヴァキア(ベーメン、メーレン)出身労働者、そしてポーランド人、最後にソ連人、(1943 年イタリア降伏後は)イタリア人、最下層にはユダヤ人が位置していた」。
  17. ^ 例外的なケースとしてフィリップ・ミューラーの件が挙げられる。彼自身の証言によれば1942年春から年末までゾンダーコマンドであったが、後に別の労働に移ることになり生き残ることができたとしている。彼はニュルンベルク裁判で証言台に立った。
  18. ^ アウシュヴィッツ徹底ガイド 6号棟その2「日々の生活」
  19. ^ 各労働者の労働力を3つのランク(ランク1.一般的ドイツ人の業績の100%以上、ランク2.100%~90%、ランク3.90%以下)いずれかに評価し、与えられたランクに応じて食料を配給する制度。産業界は生産性の向上を目的に労働者の再生産環境向上を1943年頃より求めている。背景には、食料自給状況の悪化のほかに、東部戦線の停滞さらには、ソ連軍の反攻による労働力確保の行き詰まりが挙げられる。
  20. ^ たとえば、スラブ人に対しては、最低レベルに属するドイツ人労働者のさらに半分などと規定されていた。
  21. ^ 後に聖人に列せられたマキシミリアノ・コルベ神父は、他人の身代わりとしてこの餓死牢に入っている。
  22. ^ 絞首刑には移動式の絞首刑台なども用いられた。見せしめによる精神的抑圧を第一の目的としていると言える。
  23. ^ 占領地にSSが赴き、ユダヤ人や政治犯を殺害するというもの。強制収容所の管理も同じSSが行っている点に注目すると、占領地での殺戮行為が強制収容所内に持ち込まれてもおかしくはない状況と言える。
  24. ^ ヘースの証言によると、クレマトリウム4と5には資材不足から換気設備が備え付けられていなかった。すべてのガス施設での作業にはガスマスクが必要であったとする証言もある。
  25. ^ または「ブンカー」とも呼ばれる。
  26. ^ バイエルン赤十字(BRK)もこれに含まれる。
  27. ^ 1949年に改定(第4項)。
  28. ^ 元視察員のモーリス・ロッセルはBBCのインタビューに対し、強制収容所の状況を自らの安全を考慮した上で直接現地から"正直"に報告することの難しさを述べている。
  29. ^ コルネリオ・ソマルガはBBCのインタビューに対し、スイスの国政にかかわる人間がICRC委員であったことに問題があったとも述べている。
  30. ^ 1939年から1941年に実施されたT4作戦にも関与した。
  31. ^ ただし、ナチスはドイツ国内で他民族(スラブ人など)が労働することを許可しない傾向にあり、もしこのような処置があったとしてもすべての被収容者に対してとは考えにくい。また、当時からソ連の体制に対する恐怖が一般大衆に少なからずあったことも事実であり(ヴィーンヌィツャ大虐殺)、自主的な選択はもちろん、強制収容所という特殊な環境下においてこの恐怖を利用してドイツ移送を誘導的に承諾させたとも考えられる(ストックホルム症候群)。
  32. ^ アウシュヴィッツなどの強制収容所から解放され帰還したソ連兵捕虜、一般ソ連人(ソ連邦に属する人々)の多くは、敵に協力した反逆者としてソ連によって教化施設(強制労働施設)に送られることになる。
  33. ^ 強制収容所に残り、ソ連軍に解放された人々についても必ずしも安全が保障されたわけではなかったとする証言もある。ソ連は解放から約ひと月の間、他の連合諸国がアウシュヴィッツに立ち入ることを許可しなかった。このことが後にさまざまな疑念を生むひとつの原因にもなる。


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