ノルマンディー侵攻とは? わかりやすく解説

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ノルマンディー侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 07:50 UTC 版)

ヴァルター・オームゼン」の記事における「ノルマンディー侵攻」の解説

1944年2月1日、オームゼンはクリスベック砲兵陣地英語版)の指揮官任命された。上級部隊は第260海軍砲兵大隊( Marine-Artillerie-Abteilung 260)で、この陣地にはオームゼンを含む将校3名、下士官24名、兵卒287名の合計314名の海軍将兵駐屯していた。これに加え第709歩兵師団919擲弾兵連隊第6中隊よりガイスラー少尉(Geissler)率い400程度陸軍将兵増援として派遣されていた。 1944年6月6日午前5時00分、オームゼンは砲兵陣地備え付けられ測距儀通して連合軍艦隊目視する。彼はすぐにシェルブール海軍司令部通報し、まもなく大西洋沿岸全てのドイツ軍陣地警報が発せられた。彼が後に受章する騎士鉄十字章勲記1944年6月15日付のドイツ新聞記事によれば、オームゼンはノルマンディーにて連合軍侵攻艦隊発見した最初軍人であったとされる午前5時52分、オームゼンに砲撃命令が下る。この時点連合軍艦隊砲兵陣地の距離は17km程度であった午前5時55分、オームゼンの指揮の元、砲兵陣地砲撃開始。米重巡タスカルーサおよびクインシー、米戦艦ネバダとの激し砲戦を行う。午前6時30分、米駆逐艦コリー英語版)を撃沈午前8時00分、ネバダ砲撃砲郭1つ命中。この時点で、元々オマハ・ビーチの上支援従事していた米戦艦テキサスおよびアーカンソーが、クリスベック砲兵陣地破壊するべくユタ・ビーチへと移動していた。午前9時00分、3隻の戦艦による艦砲射撃の中、ネバタから放たれ砲弾1つ砲郭内部炸裂詰めていた将兵全員戦死する。これにより2つ目の砲郭沈黙した海岸から10kmほど離れた箇所にあった24砲郭艦砲射撃に耐えぬき、午前1100分より第5抵抗面(Widerstandsnest 5)に指定されていた浜辺への直接砲撃開始し上陸最中米軍部隊大打撃与えた6月7日午前7時00分、砲兵陣地侵攻艦隊との砲戦が続く中、米第4歩兵師団22歩兵連隊英語版第1大隊はクリスベック砲兵陣地およびサン=マルクフ(英語版)への攻撃乗り出した最初攻勢において第1大隊サン=マルクフへの侵入成功するも、クリスベック砲兵陣地から75mm高射砲平射撃を受けて足止めされる。そしてドイツ軍はアズヴィル(英語版砲兵陣地からシュナイダー105mmカノン砲による援護を受けつつ反撃行い、米第1大隊長トム・シールズ大尉(Tom Shield)は大隊撤退命じたアメリカ軍午後になってから野砲展開し砲兵陣地への砲撃開始するアメリカ側砲撃夜通し行われたこうした激戦が行われている最中6月7日朝、オームゼンはアメリカ攻撃退けた戦功により二級鉄十字章受章している。同日夕方にはシェルブール司令部より一級鉄十字章授与決定した旨の電話連絡受けた6月8日午前10時00分、米第1大隊砲兵陣地対す攻勢再開してサン=マルクフを制圧する午後1時30分、砲兵陣地に対して20分にわたる艦砲射撃加えられ野砲部隊による砲撃がこれに続く。この最中、オームゼンは左手負傷しており、また最後の210mm砲も破壊されてしまった。アメリカ軍はまもなく砲兵陣地周辺展開し午後4時00分頃よりドイツ兵が立てこもる退避壕爆破着手した。これを目の当たりにしたオームゼンは未だ4門の105mm砲を有するアズヴィル砲兵陣地対し、クリスベック砲兵陣地砲撃加えるように命じた。まもなくして砲撃が始まるとアメリカ軍大混乱に陥り、オームゼンはガイスラー少尉陸軍部隊と共に反撃乗り出す。これによりアメリカ軍砲兵陣地から南に1.2kmに位置するデンヴィルの集落まで撤退余儀なくされた。この反撃攻勢参加していた米軍のうち15%が死傷し98名が捕虜となった6月11日朝までに、オームゼン指揮下の部隊全ての弾薬医薬品使い果たし、また全ての火砲破壊されていた。同日午後、ヴァルター・ヘネッケ(英語版海軍少将より電話があり、生存者率いて脱出試みよとの命令下された。オームゼンは21人の負傷兵126人の米軍捕虜陣地内に残し78人の将兵と共に米軍包囲突破、およそ8km離れたオームヴィル=レストル英語版)の友軍前線へ到達成功した6月12日前日上陸したばかりの米第9歩兵師団英語版)がクリスベック砲兵陣地攻撃割り当てられる午前8時30分第9師団93歩兵連隊英語版)が砲兵陣地突入するも、既に守備隊1人残っていなかった。この陣地を守るために307人のドイツ将兵戦死し、またこの陣地を奪う為に同数それ以上アメリカ将兵戦死した6月14日、オームゼンらはモルサリーヌ(英語版)に移り、またここでオームゼンは騎士鉄十字章授与された。その後、オームゼンらは歩兵中隊再編されシェルブールの戦い参加した6月26日アメリカ軍捕虜となる。1946年3月15日釈放

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ノルマンディー侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 15:23 UTC 版)

ロバート・コール」の記事における「ノルマンディー侵攻」の解説

1944年6月6日コール率い第3大隊ノルマンディー上陸作戦オーバーロード作戦)における空挺作戦一環としてノルマンディー降下した6日夕方までにコール75人の将兵との合流果たした。彼らはユタ・ビーチ後方集落サン=マルタン=ド=ヴァールヴィル(英語版)のイグジット3地点Exit 3)を確保し上陸後前進してきた第4歩兵師団との合流果たした第3大隊第4師団予備隊に組み込まれカランタンへの攻撃計画していた第101空挺師団右側守備当たった6月10日午後コール大隊将兵400名はパープルハート・レーン(英語版)、すなわち名誉戦傷章路として知られる土手道前進した。パープルハート・レーンは両側を沼に挟まれ長い直線道路で、遮蔽物になりうる建物地形周囲にほとんど存在していなかった。また、コールらの右側にあった大きな農家生垣の裏には塹壕掘られドイツ側守備隊配置されていた。パープルハート・レーンの先にカランタンがあり、そこに到達するには4つの橋渡り氾濫したドーブ川(英語版)を超える必要があった。カランタンオマハ・ビーチ上陸した29歩兵師団英語版)の集結地点指定されていた。 前進最中コールらは火砲機関銃迫撃砲などによる激し銃砲火に晒された。これによって多数死傷者出しながらも、大隊兵士らは屈んだ地面を這うなどして少しずつ前進続けた。しかし、彼らが超えねばならない最後、すなわち第4のはベルジャン・ゲート(英語版)として知られる障害物塞がれており、せいぜい1度1人ずつしか通過することができなかった。突破試みられたものの失敗終わり生き残り兵士らはドイツ軍展開する農場対し土手道挟んだ反対側に留まって夜を迎えることとなった夜間大隊迫撃砲および2機の航空機による攻撃晒された。この時の被害大きく、I中隊戦闘からの離脱余儀なくされた。しかし、その後農場からの攻撃が緩むと、残り将兵265人は障害物乗り越えて静かに前進し攻撃の準備整えたドイツ軍依然として通行阻害しており、また砲撃支援以ってしても彼らを無力化することはできなかった。そうした中、コールドイツ軍塹壕前に煙幕を張らせ、銃剣突撃命じたのであるコールはまず、大隊一部のみを率いて農場生垣まで突撃した生垣近くにいたドイツ軍部隊との白兵戦が始まると、残り兵士着剣しこれに続いた。やがて、ドイツ軍さらなる死傷者を出すことを恐れて農場放棄し撤退した。 この突撃は後に「コール突撃」(Cole's Charge)と呼ばれることになる。その対価決して軽いものではなく突撃参加した将兵265人のうち130人が死傷した大隊消耗を受け、コール第1大隊連絡し第3大隊より前進して攻撃再開するようにと要請した。しかし第1大隊も第4の超える際に迫撃砲による集中砲火晒され第3大隊と同じ位置足止めされてしまった。その後カランタン守備付いていたドイツ第6降下猟兵連隊による反撃始まった19時00分頃コール指揮下の砲兵観測員は通信妨害破り軍団砲兵隊集中一斉砲撃要請しドイツ軍の攻撃粉砕した6月12日2時00分、第506落下傘歩兵連隊英語版)が前進しカランタンの南に位置する30高地Hill 30)を占領したその後夜明け待って506連隊第2大隊E中隊英語版)は第3大隊と共に北側からカランタン攻撃した。第6降下猟兵連隊は既に弾薬欠乏しており、わずかな後衛部隊残して夜間のうちに撤退していた。7時30分カランタン陥落した

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ノルマンディー侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 15:22 UTC 版)

ハンス・フォン・ルック」の記事における「ノルマンディー侵攻」の解説

1944年6月6日連合軍によるノルマンディーへの侵攻始まったその夜ルック彼の担当する地域連合軍落下傘部隊オルヌ川東側橋頭堡確保するべく降下した旨の報告を受け驚愕したルックすぐさま指揮下の第2大隊攻撃命じ落下傘部隊任務妨害した上で数名捕虜を得ることに成功している。しかし、状況明らかになるまで大規模な作戦活動禁止する旨が上級司令部より通達されたため、これ以上戦果はなかった。 午前4時30分に伝達され英国第6空挺師団英語版)による内陸部への降下警戒する旨の命令下で第21装甲師団身動き封じられている間、沿岸守備隊連合軍大規模な攻勢にあった午前10時30分頃、第21装甲師団の上部隊である第84軍団軍団長エーリヒ・マルクス(ドイツ語版将軍は第21装甲師団オルヌ川東部への攻撃命じた。しかしこの命令第7軍司令部による修正が行われ、師団主力オルヌ川西部へ攻撃担当し東部への攻撃ルック連隊のみに任された。 度重なる任務変更引き起こした混乱ドイツ軍応戦を更に遅延させた。午後5時までにルック率い装甲兵員輸送車部隊オルヌ川掛かるベヌヴィル[要出典]突破試みたが、確保したジョン・ハワード英語版少佐指揮下の落下傘部隊支援するべく開始され艦砲射撃によってあえなく撃退された。加えて、更に多く英国落下傘部隊連隊周囲降下開始しルック第2大隊包囲避けるべく撤退余儀なくされた。6月7日第2大隊大隊長戦死する6月9日早朝ルック指揮官としてフォン・ルック戦闘団編成が行われた。これはルック指揮下の第125装甲擲弾兵連隊21装甲偵察大隊第4中隊基幹部隊として、アルフレート・ベッカー英語版少佐指揮する22装甲連隊200突撃砲大隊から抽出された3個中隊及び第220対戦車大隊から抽出された88mm砲の1個中隊が参加した。 再びオルヌ川奪還せよとの任務与えられたフォン・ルック戦闘団は、英国軍艦砲射撃航空支援得られない夜明け1時間前、程近いRanville向けて進撃開始する戦闘団駐留する敵勢力を排除したものの、から続く英国防衛線まで浸透することは出来なかった。橋の防衛固め英国落下傘部隊は、6月8日夜までに第51ハイランド師団英語版)からの援軍受けて増強された。 6月12日ネーベルヴェルファー旅団により増強されたフォン・ルック戦闘団は、上陸地点見渡せ重要な区域位置するサント・オノリーヌ[要出典]確保成功するも、カナダ軍師団猛烈な反撃受けた撃退されてしまう。苛烈白兵戦の末、ルック英国橋頭堡排除できない判断して撤退した。しかし、フォン・ルック戦闘団反撃最中埋設した無数の地雷除去する為、英国軍及びカナダ軍はその地区における前進一時的に中止せざるを得なかった。 6月15日ドイツ軍攻勢頓挫以降、その地区2週間ほど比較平穏だった。

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