ノルマンディー侵攻
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「ヴァルター・オームゼン」の記事における「ノルマンディー侵攻」の解説
1944年2月1日、オームゼンはクリスベック砲兵陣地(英語版)の指揮官に任命された。上級部隊は第260海軍砲兵大隊( Marine-Artillerie-Abteilung 260)で、この陣地にはオームゼンを含む将校3名、下士官24名、兵卒287名の合計314名の海軍将兵が駐屯していた。これに加え、第709歩兵師団第919擲弾兵連隊第6中隊よりガイスラー少尉(Geissler)率いる400名程度の陸軍将兵が増援として派遣されていた。 1944年6月6日午前5時00分、オームゼンは砲兵陣地に備え付けられた測距儀を通して連合軍艦隊を目視する。彼はすぐにシェルブールの海軍司令部へ通報し、まもなく大西洋沿岸全てのドイツ軍陣地へ警報が発せられた。彼が後に受章する騎士鉄十字章の勲記と1944年6月15日付のドイツ新聞の記事によれば、オームゼンはノルマンディーにて連合軍の侵攻艦隊を発見した最初の軍人であったとされる。午前5時52分、オームゼンに砲撃命令が下る。この時点で連合軍艦隊と砲兵陣地の距離は17km程度であった。午前5時55分、オームゼンの指揮の元、砲兵陣地が砲撃を開始。米重巡タスカルーサおよびクインシー、米戦艦ネバダとの激しい砲戦を行う。午前6時30分、米駆逐艦コリー(英語版)を撃沈。 午前8時00分、ネバダの砲撃が砲郭の1つに命中。この時点で、元々オマハ・ビーチの上陸支援に従事していた米戦艦テキサスおよびアーカンソーが、クリスベック砲兵陣地を破壊するべくユタ・ビーチへと移動していた。午前9時00分、3隻の戦艦による艦砲射撃の中、ネバタから放たれた砲弾が1つの砲郭の内部で炸裂、詰めていた将兵全員が戦死する。これにより2つ目の砲郭が沈黙した。海岸から10kmほど離れた箇所にあった第24砲郭は艦砲射撃に耐えぬき、午前11時00分より第5抵抗面(Widerstandsnest 5)に指定されていた浜辺への直接砲撃を開始し、上陸最中の米軍部隊に大打撃を与えた。 6月7日午前7時00分、砲兵陣地と侵攻艦隊との砲戦が続く中、米第4歩兵師団第22歩兵連隊(英語版)第1大隊はクリスベック砲兵陣地およびサン=マルクフ(英語版)への攻撃に乗り出した。最初の攻勢において第1大隊はサン=マルクフへの侵入に成功するも、クリスベック砲兵陣地から75mm高射砲の水平射撃を受けて足止めされる。そしてドイツ軍はアズヴィル(英語版)砲兵陣地からシュナイダー105mmカノン砲による援護を受けつつ反撃を行い、米第1大隊長トム・シールズ大尉(Tom Shield)は大隊に撤退を命じた。アメリカ軍は午後になってから野砲を展開し、砲兵陣地への砲撃を開始する。アメリカ側の砲撃は夜通し行われた。 こうした激戦が行われている最中の6月7日朝、オームゼンはアメリカの攻撃を退けた戦功により二級鉄十字章を受章している。同日夕方にはシェルブールの司令部より一級鉄十字章の授与が決定した旨の電話連絡を受けた。 6月8日午前10時00分、米第1大隊が砲兵陣地に対する攻勢を再開してサン=マルクフを制圧する。午後1時30分、砲兵陣地に対して20分にわたる艦砲射撃が加えられ、野砲部隊による砲撃がこれに続く。この最中、オームゼンは左手を負傷しており、また最後の210mm砲も破壊されてしまった。アメリカ軍はまもなく砲兵陣地周辺に展開し、午後4時00分頃よりドイツ兵が立てこもる退避壕の爆破に着手した。これを目の当たりにしたオームゼンは未だ4門の105mm砲を有するアズヴィル砲兵陣地に対し、クリスベック砲兵陣地へ砲撃を加えるように命じた。まもなくして砲撃が始まるとアメリカ軍は大混乱に陥り、オームゼンはガイスラー少尉ら陸軍部隊と共に反撃に乗り出す。これによりアメリカ軍は砲兵陣地から南に1.2kmに位置するデンヴィルの集落まで撤退を余儀なくされた。この反撃で攻勢に参加していた米軍のうち15%が死傷し、98名が捕虜となった。 6月11日朝までに、オームゼン指揮下の部隊は全ての弾薬と医薬品を使い果たし、また全ての火砲が破壊されていた。同日午後、ヴァルター・ヘネッケ(英語版)海軍少将より電話があり、生存者を率いて脱出を試みよとの命令が下された。オームゼンは21人の負傷兵と126人の米軍捕虜を陣地内に残し、78人の将兵と共に米軍の包囲を突破、およそ8km離れたオームヴィル=レストル(英語版)の友軍前線への到達に成功した。 6月12日、前日に上陸したばかりの米第9歩兵師団(英語版)がクリスベック砲兵陣地攻撃に割り当てられる。午前8時30分、第9師団第93歩兵連隊(英語版)が砲兵陣地に突入するも、既に守備隊は1人も残っていなかった。この陣地を守るために307人のドイツ将兵が戦死し、またこの陣地を奪う為に同数かそれ以上のアメリカ将兵が戦死した。 6月14日、オームゼンらはモルサリーヌ(英語版)に移り、またここでオームゼンは騎士鉄十字章を授与された。その後、オームゼンらは歩兵中隊に再編されシェルブールの戦いに参加した。6月26日、アメリカ軍の捕虜となる。1946年3月15日、釈放。
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ノルマンディー侵攻
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「ロバート・コール」の記事における「ノルマンディー侵攻」の解説
1944年6月6日、コール率いる第3大隊はノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)における空挺作戦の一環としてノルマンディーに降下した。6日夕方までにコールは75人の将兵との合流を果たした。彼らはユタ・ビーチ後方の集落サン=マルタン=ド=ヴァールヴィル(英語版)のイグジット3地点(Exit 3)を確保し、上陸後前進してきた第4歩兵師団との合流を果たした。第3大隊は第4師団の予備隊に組み込まれ、カランタンへの攻撃を計画していた第101空挺師団の右側面守備に当たった。 6月10日午後、コールと大隊の将兵400名はパープルハート・レーン(英語版)、すなわち名誉戦傷章路として知られる土手道を前進した。パープルハート・レーンは両側を沼に挟まれた長い直線道路で、遮蔽物になりうる建物や地形は周囲にほとんど存在していなかった。また、コールらの右側にあった大きな農家の生垣の裏には塹壕が掘られ、ドイツ側の守備隊が配置されていた。パープルハート・レーンの先にはカランタンがあり、そこに到達するには4つの橋を渡り氾濫したドーブ川(英語版)を超える必要があった。カランタンはオマハ・ビーチに上陸した第29歩兵師団(英語版)の集結地点に指定されていた。 前進の最中、コールらは火砲、機関銃、迫撃砲などによる激しい銃砲火に晒された。これによって多数の死傷者を出しながらも、大隊の兵士らは屈んだり地面を這うなどして少しずつ前進を続けた。しかし、彼らが超えねばならない最後の橋、すなわち第4の橋はベルジャン・ゲート(英語版)として知られる障害物で塞がれており、せいぜい1度に1人ずつしか通過することができなかった。突破も試みられたものの失敗に終わり、生き残りの兵士らはドイツ軍の展開する農場に対し土手道を挟んだ反対側に留まって夜を迎えることとなった。 夜間、大隊は迫撃砲および2機の航空機による攻撃に晒された。この時の被害も大きく、I中隊は戦闘からの離脱を余儀なくされた。しかし、その後農場からの攻撃が緩むと、残りの将兵265人は障害物を乗り越えて静かに前進し、攻撃の準備を整えた。 ドイツ軍は依然として橋の通行を阻害しており、また砲撃支援を以ってしても彼らを無力化することはできなかった。そうした中、コールはドイツ軍塹壕の前に煙幕を張らせ、銃剣突撃を命じたのである。コールはまず、大隊の一部のみを率いて農場の生垣まで突撃した。生垣近くにいたドイツ軍部隊との白兵戦が始まると、残りの兵士も着剣しこれに続いた。やがて、ドイツ軍はさらなる死傷者を出すことを恐れて農場を放棄し撤退した。 この突撃は後に「コールの突撃」(Cole's Charge)と呼ばれることになる。その対価は決して軽いものではなく、突撃に参加した将兵265人のうち130人が死傷した。大隊の消耗を受け、コールは第1大隊に連絡し、第3大隊より前進して攻撃を再開するようにと要請した。しかし第1大隊も第4の橋を超える際に迫撃砲による集中砲火に晒され、第3大隊と同じ位置で足止めされてしまった。その後、カランタンの守備に付いていたドイツ第6降下猟兵連隊による反撃が始まった。19時00分頃、コール指揮下の砲兵観測員は通信妨害を破り、軍団付砲兵隊に集中一斉砲撃を要請し、ドイツ軍の攻撃を粉砕した。 6月12日2時00分、第506落下傘歩兵連隊(英語版)が前進し、カランタンの南に位置する第30高地(Hill 30)を占領した。その後、夜明けを待って第506連隊第2大隊E中隊(英語版)は第3大隊と共に北側からカランタンを攻撃した。第6降下猟兵連隊は既に弾薬が欠乏しており、わずかな後衛部隊を残して夜間のうちに撤退していた。7時30分、カランタンは陥落した。
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ノルマンディー侵攻
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「ハンス・フォン・ルック」の記事における「ノルマンディー侵攻」の解説
1944年6月6日、連合軍によるノルマンディーへの侵攻が始まった。 その夜、ルックは彼の担当する地域に連合軍の落下傘部隊がオルヌ川東側に橋頭堡を確保するべく降下した旨の報告を受け驚愕した。ルックはすぐさま指揮下の第2大隊に攻撃を命じ、落下傘部隊の任務を妨害した上で数名の捕虜を得ることに成功している。しかし、状況が明らかになるまで大規模な作戦活動を禁止する旨が上級司令部より通達されたため、これ以上の戦果はなかった。 午前4時30分に伝達された英国第6空挺師団(英語版)による内陸部への降下を警戒する旨の命令下で第21装甲師団が身動きを封じられている間、沿岸の守備隊は連合軍の大規模な攻勢下にあった。 午前10時30分頃、第21装甲師団の上級部隊である第84軍団の軍団長エーリヒ・マルクス(ドイツ語版)将軍は第21装甲師団にオルヌ川東部への攻撃を命じた。しかしこの命令は第7軍司令部による修正が行われ、師団主力はオルヌ川西部への攻撃を担当し、東部への攻撃はルックの連隊のみに任された。 度重なる任務の変更が引き起こした混乱はドイツ軍の応戦を更に遅延させた。午後5時までにルックの率いる装甲兵員輸送車部隊はオルヌ川に掛かるベヌヴィル[要出典]橋の突破を試みたが、橋を確保したジョン・ハワード(英語版)少佐指揮下の落下傘部隊を支援するべく開始された艦砲射撃によってあえなく撃退された。加えて、更に多くの英国落下傘部隊が連隊の周囲に降下を開始し、ルックの第2大隊は包囲を避けるべく撤退を余儀なくされた。6月7日、第2大隊の大隊長が戦死する。 6月9日早朝、ルックを指揮官としてフォン・ルック戦闘団の編成が行われた。これはルック指揮下の第125装甲擲弾兵連隊第21装甲偵察大隊第4中隊を基幹部隊として、アルフレート・ベッカー(英語版)少佐が指揮する第22装甲連隊第200突撃砲大隊から抽出された3個中隊及び第220対戦車大隊から抽出された88mm砲の1個中隊が参加した。 再びオルヌ川の橋を奪還せよとの任務が与えられたフォン・ルック戦闘団は、英国軍が艦砲射撃や航空支援の得られない夜明け1時間前、橋に程近いRanville村へ向けて進撃を開始する。戦闘団は村に駐留する敵勢力を排除したものの、橋から続く英国の防衛線まで浸透することは出来なかった。橋の防衛を固める英国の落下傘部隊は、6月8日夜までに第51ハイランド師団(英語版)からの援軍を受けて増強された。 6月12日、ネーベルヴェルファー旅団により増強されたフォン・ルック戦闘団は、上陸地点を見渡せる重要な区域に位置するサント・オノリーヌ[要出典]村の確保に成功するも、カナダ軍師団の猛烈な反撃を受けた撃退されてしまう。苛烈な白兵戦の末、ルックは英国の橋頭堡を排除できないと判断して撤退した。しかし、フォン・ルック戦闘団が反撃の最中に埋設した無数の地雷を除去する為、英国軍及びカナダ軍はその地区における前進を一時的に中止せざるを得なかった。 6月15日のドイツ軍攻勢の頓挫以降、その地区は2週間ほど比較的平穏だった。
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