ノルマンディー公時代とは? わかりやすく解説

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ノルマンディー公時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 23:08 UTC 版)

ウィリアム1世 (イングランド王)」の記事における「ノルマンディー公時代」の解説

ノルマン人支配するノルマンディー地方君主であるノルマンディー公ロベール1世庶子として、フランスファレーズ生まれた。母は北西フランスの皮なめし職人の娘アルレット出生のため庶子ギヨーム (Guillaume le Bâtard) とも呼ばれる1035年ギヨームは父から継承者指名されエルサレム巡礼から戻る途中没した父の後を継いでフランス王臣下であるノルマンディー公になった若年のため重臣達との争い起こり1047年フランス王アンリ1世助け得てヴァル・エ・デュヌの戦いで諸侯の軍に勝利領内安定化尽力して勢力蓄えた1049年ウェセックスアルフレッド大王マーシアオファの子孫であるフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダ結婚したが、近親であることを理由ローマ教皇レオ9世から婚姻の無効申し立てられた。 当時イングランドサクソン七王国支配の後、一時デーン人支配受けた1042年には、再びウェセックス王家エドワード懺悔王イングランド王即位した。その地位周辺国微妙な力関係の上依拠するもので、世嗣のいないエドワード懺悔王の跡を周辺国の王や諸侯達は虎視眈々狙っていた。ギヨーム1052年イングランドへ渡海懺悔王から王位継承約束されたとされる懺悔王の母エマギヨーム大叔母であることがギヨーム王位継承権根拠である。また懺悔王デーン人支配逃れ20年余りノルマンディーにて亡命生活送りギヨームとは親しい関係にあったノルマンディー帰還後1053年マティルダ改め結婚レオ9世結婚禁止令は1059年になって教皇ニコラウス2世によって解除されイングランド王家縁戚を得るに至ったマティルダとの間にノルマンディー公ロベール2世イングランド王ウィリアム2世ヘンリー1世アデルスティーブンの母)などが生まれた。後に腹心となるカンタベリーのランフランクスともこの頃出会い、彼をルーアン大司教任命した1063年ル・マンメーヌ征服領土拡大した。 翌1064年懺悔王義兄イングランド王家連なるハロルド・ゴドウィンソン(後のハロルド2世)がフランス渡ろうとして嵐で難破ノルマンディー漂着したギヨームハロルド歓待ハロルドギヨーム臣従の礼を取り懺悔王亡き後ギヨーム王位継承支持することも約束した。しかし、ハロルドイングランド帰国後にこの約束を破ることになる。

※この「ノルマンディー公時代」の解説は、「ウィリアム1世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「ノルマンディー公時代」を含む「ウィリアム1世 (イングランド王)」の記事については、「ウィリアム1世 (イングランド王)」の概要を参照ください。

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