亡命生活とは? わかりやすく解説

亡命生活(1791年‐1814年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 02:24 UTC 版)

ルイ18世 (フランス王)」の記事における「亡命生活(1791年1814年)」の解説

コブレンツ王室所領居を構えると、彼は反革命運動の旗手として、大使任命し欧州諸国君主たち、その中でとりわけロシアエカチェリーナ2世向けて熱心に援助要請行ったフランス内情から切り離され更にはアルトワ伯やカロンヌらに率いられ激烈な反革命主義者囲まれた彼は、全くもって身勝手な政策推し進めるオーストリアとプロイセン働きかけピルニッツ宣言を出させたが、それは革命派をより過激にさせた。ヴァルミーの戦いの後、彼はヴェストファーレンハム引退し、そこにてルイ16世刑死を知ると、自らを摂政であると宣言したその後南部フランス王党派駆り立てる目的ヴェローナ移り住みルイ17世死去にあたってルイ18世称した。この時期、彼とバルビ夫人との関係は終わりを告げ、アヴァレ伯爵影響力頂点に達する。この時以降、彼は果てることのない放浪駆け引き謀議日々を送るようになる1796年4月プロヴァンス伯ドイツとの国境付近展開するコンデ軍と合流したが、すぐにその国を去るよう求められるその後1797年までブラウンシュヴァイク公庇護の下ブランケンベルグにて過ごしたが、それ以上避難先として滞在できなくなりロシアパーヴェル1世許可得てクールラントイェルガヴァミタウ)に移り1801年までその地に住んだ。彼はずっとフランス内王党派連絡取っていたが、イギリスに居るアルトワ伯による相反する策動には悩まされ腐敗し不実な工作員たちのなすがままになっていた。イェルガヴァにて、彼はルイ16世の娘のマリー・テレーズアルトワ伯の息子アングレーム公の結婚という積年の夢を実現させた。1799年、彼はイェルガヴァよりボナパルト宛に手紙送りジョージ・マンクイギリスの王政復古立役者)の役割務めるよう要請したが、却下された。その一方でルイ18世ボナパルトからの年金受理拒み、さらに1803年彼の財産が底をついても、ボナパルト求めに応じて退位するのを拒否した移り気なパーヴェル1世によってイェルガヴァ突如追い出されたため、ルイ18世極寒の中旅をし、プロイセン国王許可得てワルシャワに移ると3年間をその街で過ごした。彼は引き続きフランスに再び王政呼び戻そうとしており、1799年終わりにロワイエ=コラールモンテスキュークレルモン=ガルランドらによって設立された「王室顧問委員会」をパリ置いていたが、その活動ライバルアルトワ伯の機関によって頻繁に妨げられた。しかし1800年以降カドゥーダルピシュグリュモロー王党派による陰謀失敗と、それに続くアンギャン公処刑ならびにナポレオン帝政幕開けによって、王政復古絶望的になる。1804年ルイ18世スウェーデンカルマルにてアルトワ伯と再会すると、ナポレオン帝政反対する声明発したが、プロイセン国王よりポーランド戻ってはならぬとの警告受けたことで、ロシアアレクサンドル1世許可得て、再びイェルガヴァ退いたしかしながら1807年ティルジットの和約で仏露が同盟関係になると、彼はまたもイェルガヴァ追い出されたため、イギリスの王太子ジョージ庇護を受け、当初エセックスのゴスフィールドに、次いでバッキンガムシャーのハートウェルに身を落ち着かせた。1810年、妃のマリー死去し翌年にはアヴァレもこの世去り寵臣地位はブラカ伯爵引き継いだ1813年ドイツ戦役ナポレオン敗北すると、王党派は再び活気付いた。そしてルイ18世新たに声明文発しその中で革命成果肯定する約束したルイ18世スウェーデン王太子ベルナドット協力してくれるだろうと期待して交渉持ったが、王太子実際のところ独自の意思基づいて行動していた。

※この「亡命生活(1791年‐1814年)」の解説は、「ルイ18世 (フランス王)」の解説の一部です。
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