亡命生活(1791年‐1814年)
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「ルイ18世 (フランス王)」の記事における「亡命生活(1791年‐1814年)」の解説
コブレンツの王室所領に居を構えると、彼は反革命運動の旗手として、大使を任命し、欧州諸国の君主たち、その中でもとりわけロシアのエカチェリーナ2世に向けて、熱心に援助の要請を行った。フランスの内情から切り離され、更にはアルトワ伯やカロンヌらに率いられた激烈な反革命主義者に囲まれた彼は、全くもって身勝手な政策を推し進める。オーストリアとプロイセンに働きかけピルニッツ宣言を出させたが、それは革命派をより過激にさせた。ヴァルミーの戦いの後、彼はヴェストファーレンのハムに引退し、そこにてルイ16世の刑死を知ると、自らを摂政であると宣言した。その後、南部フランスの王党派を駆り立てる目的でヴェローナに移り住み、ルイ17世死去にあたってルイ18世と称した。この時期、彼とバルビ夫人との関係は終わりを告げ、アヴァレ伯爵の影響力は頂点に達する。この時以降、彼は果てることのない放浪と駆け引きと謀議の日々を送るようになる。 1796年4月、プロヴァンス伯はドイツとの国境付近で展開するコンデ軍と合流したが、すぐにその国を去るよう求められる。その後1797年までブラウンシュヴァイク公の庇護の下ブランケンベルグにて過ごしたが、それ以上避難先として滞在できなくなり、ロシアのパーヴェル1世の許可を得てクールラントのイェルガヴァ(ミタウ)に移り、1801年までその地に住んだ。彼はずっとフランス内の王党派と連絡を取っていたが、イギリスに居るアルトワ伯による相反する策動には悩まされ、腐敗し不実な工作員たちのなすがままになっていた。イェルガヴァにて、彼はルイ16世の娘のマリー・テレーズとアルトワ伯の息子のアングレーム公の結婚という積年の夢を実現させた。1799年、彼はイェルガヴァよりボナパルト宛に手紙を送り、ジョージ・マンク(イギリスの王政復古の立役者)の役割を務めるよう要請したが、却下された。その一方でルイ18世もボナパルトからの年金の受理を拒み、さらに1803年に彼の財産が底をついても、ボナパルトの求めに応じて退位するのを拒否した。 移り気なパーヴェル1世によってイェルガヴァを突如追い出されたため、ルイ18世は極寒の中旅をし、プロイセン国王の許可を得てワルシャワに移ると3年間をその街で過ごした。彼は引き続きフランスに再び王政を呼び戻そうとしており、1799年の終わりにロワイエ=コラール、モンテスキュー、クレルモン=ガルランドらによって設立された「王室顧問委員会」をパリに置いていたが、その活動はライバルのアルトワ伯の機関によって頻繁に妨げられた。しかし1800年以降、カドゥーダル、ピシュグリュ、モローら王党派による陰謀の失敗と、それに続くアンギャン公の処刑ならびにナポレオン帝政の幕開けによって、王政復古は絶望的になる。1804年、ルイ18世はスウェーデンのカルマルにてアルトワ伯と再会すると、ナポレオンの帝政に反対する声明を発したが、プロイセン国王よりポーランドに戻ってはならぬとの警告を受けたことで、ロシアのアレクサンドル1世の許可を得て、再びイェルガヴァに退いた。しかしながら、1807年のティルジットの和約で仏露が同盟関係になると、彼はまたもイェルガヴァを追い出されたため、イギリスの王太子ジョージの庇護を受け、当初はエセックスのゴスフィールドに、次いでバッキンガムシャーのハートウェルに身を落ち着かせた。1810年、妃のマリーが死去し、翌年にはアヴァレもこの世を去り、寵臣の地位はブラカ伯爵が引き継いだ。 1813年のドイツ戦役でナポレオンが敗北すると、王党派は再び活気付いた。そしてルイ18世は新たに声明文を発し、その中で革命の成果を肯定すると約束した。ルイ18世はスウェーデン王太子のベルナドットが協力してくれるだろうと期待して交渉を持ったが、王太子は実際のところ独自の意思に基づいて行動していた。
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