亡命生活 - 共産主義活動
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「ルネ・ドゥペストル」の記事における「亡命生活 - 共産主義活動」の解説
フランスで脱植民地化運動に積極的に関わっていたドゥペストルは何度か逮捕され、1950年に国外追放を言い渡された。在仏チェコスロバキア大使で画家のアドルフ・ホフマイステル(フランス語版)の取り計らいでプラハに逃れることができ、翌51年にブラジルから亡命した作家ジョルジェ・アマードに秘書として雇われた。スターリンやトレーズを称える詩を含み、同年に発表された『明るさの群生』は、エメ・セゼールが序文を書いている。8月に東ベルリンで開催された第3回世界青年学生祭典に参加し、ニコラス・ギジェンに再会した。ユダヤ系の妻エディットがイスラエルのスパイの容疑でチェコの国家保安部に逮捕され、まもなく釈放されたが、次いでチトー主義者として逮捕されたルドルフ・スラーンスキーらが1952年の裁判で死刑判決を受けたことを批判したために、ドゥペストル夫妻は国家保安部にアメリカ帝国主義のスパイと見なされ、住居から追放された。ドゥペストル夫妻は、ギジェンに勧められてプラハを離れ、ミラノ、ジェノヴァを経てキューバへ向かったが、フルヘンシオ・バティスタ独裁政権下のキューバで今度はハイチ大使館にソ連のスパイの容疑をかけられ逮捕、収監された。3週間後にイタリアに追放され、ジェノヴァに着いた夫妻は、非合法でフランスに入国。アラゴンとブロンクールの助力を得て「フランス思想会館」に受け入れられたが、フランスからもイタリアからも滞在許可を得ることができなかったため、しばらく共産党員の知り合いのアパートに非合法で滞在したが、再び国外追放を言い渡されたため、共産党のつてでオーストリアに向かい、世界平和評議会の仕事を引き受けるなどして1か月間オーストリアに滞在した。いったんプラハに戻ったが、ジョルジェ・アマードと大陸文化会議を組織することになりチリに向かった。チリではパブロ・ネルーダの秘書を務めた。チリに7か月滞在した後、ブラジルでアマードに合流した。サンパウロで2年以上にわたってフランス語を教え、その傍ら偽名を使ってブラジル共産党の非合法活動に参加した。 この頃、セゼールとの間でネグリチュード(パリに結集したフランス領植民地の黒人知識人が起こした文学運動)において意見の対立があった。ドゥペストルをはじめとするマルクス主義者はネグリチュードをやや過激な運動と考えていたからであり、さらにはフランス語黒人作家の間に起こった国民詩論争においてセゼールと対立したからである。これは、アラゴンがフランス詩は国民的伝統から生まれるとして「国民詩」を提唱し、ドゥペストルがこれに賛同したのに対して、セゼールが猛反対し、『プレザンス・アフリケーヌ』誌上で繰り広げられた論争である。ドゥペストルは、ネグリチュードに対する彼の思想的立場を、1980年出版の『ネグリチュードにこんにちは、そして、さようなら』で表明している。 1955年末に、ドゥペストルは再びフランスに向かった。レオポール・セダール・サンゴールの尽力により滞在許可が下りたからである。ドゥペストルはパリ13区に居を構え、詩人ピエール・セゲルス(フランス語版)が設立したセゲルス出版社から詩集『はるか沖合から召喚されて』を出版した。1956年9月、『プレザンス・アフリケーヌ』誌主催の第1回パン・アフリカ主義黒人作家・芸術家会議に出席し、奴隷制や植民地化を経た黒人の経験の多様性を考慮した普遍主義的ネグリチュードを提唱した。『プレザンス・アフリケーヌ』のほか、全体主義批判を展開した『エスプリ』、対独レジスタンス運動の「国民戦線(フランス語版)」により創刊された『レットル・フランセーズ(フランス文学)』などに寄稿し、『シュルレアリスムの歴史』などで知られる文芸批評家モーリス・ナドー(フランス語版)らが創刊した『レットル・ヌーヴェル(フランス語版)』にスターリン主義を批判する記事を掲載した。 1957年、ポール・マグロワール大統領が国外に逃亡し、フランソワ・デュヴァリエが大統領に就任したとき、ドゥペストルはようやくエディットとともにポルトープランスの母のもとに戻ったが、ドゥペストルが所属する人民民主党 (PDP) とアレクシスが結成した人民協調党 (PEP) の間に、次期大統領選で掲げる革命戦略について意見の対立が生じ、『ル・ヌーヴェリスト(フランス語版)』紙上で激しい論争となった。また、デュヴァリエ大統領から外務省文化担当任命の申し出を受けた。ドゥペストルは子どもの頃からデュヴァリエを知っており、彼と同じポルトープランスのスラム街に暮らしていたときには、医師「パパ・ドク」の治療を受けたこともあったが、この申し出を断り、率直にデュヴァリエ独裁政権を批判した。この結果、ドゥペストルは1年にわたって自宅軟禁下に置かれることになった。
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