タタールのくびきとは? わかりやすく解説

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タタールの軛

読み方:タタールのくびき

13世紀モンゴル東欧侵攻征服して支配下においた出来事、および、以後15世紀までにおよぶ支配体制を指す語。

タタールのくびき

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/01 09:45 UTC 版)

タタールのくびき(タタールの軛)またはモンゴル=タタールの軛(モンゴル=タタールのくびき、ロシア語: Монголо-татарское игоタタール語: Татар-монгол игосы英語: Mongol-Tatar Yoke)とは、13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻とそれにつづくモンゴル人モンゴル=タタール)によるルーシ(現在のロシアウクライナベラルーシ)支配を、ロシア側から表現した用語である。現在のロシア人などの祖先であるルーシ人の、2世紀半にわたるモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念である[1]




「タタールのくびき」の続きの解説一覧

タタールのくびき(軛)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:51 UTC 版)

ロシアの歴史」の記事における「タタールのくびき(軛)」の解説

詳細は「タタールのくびき」を参照モンゴルのルーシ侵攻」も参照 13世紀ルーシ東西勢力による厳し挑戦を受けることとなった。まず、13世紀初頭未だキリスト教以前異教信仰とどまっていたバルト海沿岸地域に、ドイツ騎士団中心とするカトリック教徒ドイツ人北方十字軍東方殖民活動開始し正教徒であるルーシ人々との衝突が起こるようになったドイツ人侵攻1240年1242年二度にわたりノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーによって阻まれ、その東進エストニアで留まって北ルーシへのカトリック侵攻頓挫する。 しかし、ルーシにとってドイツ人よりはるかに大きな影響及ぼしたのは東から征服活動展開したモンゴル帝国であったモンゴル帝国先遣隊は既に初代皇帝チンギス・カン(ハン)の治世1223年ホラズム遠征一環としてルーシにまであらわれ、南ルーシ諸公南ロシア草原遊牧民キプチャクからなる連合軍破っていた。このときの遠征中央アジア標的したものキプチャク草原ロシア方面占領目的とした遠征ではなくモンゴル軍はすぐに東に帰ったが、第二皇帝オゴデイの治世至ってキプチャク草原方面征服企図した西方遠征が行われた。1236年チンギス・カンの孫(チンギス長男ジョチ次男バトゥ総司令官とする大規模な西方遠征軍派遣される。まずヴォルガ川中流域ヴォルガ・ブルガール征服したバトゥの征西軍は続いてルーシへと侵攻し1237年から1238年にかけてリャザンウラジーミルトヴェリ次々と占領して北東ルーシ征服、さらに1239年から1240年にかけて南ルーシ転進しキエフ・ルーシの都キエフ攻略し多く町村荒らしたモンゴル軍征服北西遠く離れたノヴゴロドを除くほとんど全ルーシに及ぶ。バトゥポーランドハンガリー荒らしたところでカアンオゴデイ死去の報を得てカスピ海北岸まで引き返し、ここにバトゥ家長とするジョチ家所領カザフ草原から黒海沿岸低地にいたる広大なキプチャク草原にまで拡大したジョチ家所領この後次第緩やかな連邦傾斜していく帝国内での自立性強めたため、ジョチ・ウルスとも呼ばれる。ここにノヴゴロドを含む全ルーシモンゴル帝国の支配下に組み込まれた。 ジョチ・ウルスは、ルーシに対しては間接統治をもって臨み決まった税金サライ納めることや戦時従軍することを義務付けたのみであった。しかし、諸公任免の最高決定権ハンの手握られていたから、主に領土の相続巡って相互に敵対する諸公たちは頻繁に税金携えてサライ赴いたり、敵対する諸公との争い不利な裁定されたりないよう宮廷実力者への付け届け余儀なくされた。納税従軍義務を怠れば懲罰として大軍侵攻を受け、たちまち権力喪失する運命であったジョチ・ウルスルーシ支配は、このような状況指して「タタールのくびき(タタールの軛)」と言われるこのようにハンによって厳重に首枷はめられルーシ諸公の中から、モンゴルとの関係をうまく立ち回って権力得たのが、モンゴルによってウラジーミル大公任命され北東ルーシ支配者となったノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーや、北東ルーシの諸公国分封されたその子孫である。アレクサンドル・ネフスキーの孫でキエフ・ルーシ時代には名前も知られていなかった北東ルーシ小都市モスクワ与えられイヴァン1世は、ジョチ・ウルス第10代君主であるウズベク・ハン力を借りてウラジーミル大公位を巡って対立するトヴェーリ公を追放させ、14世紀前半ウラジーミル大公位を獲得することに成功する歴代モスクワ公ウラジーミル大公をほとんど独占するようになり、モスクワ大公称号呼ばれるようになった1326年モスクワ大公は、全ルーシ最高位聖職者当時ウラジーミルにいたキエフ府主教モスクワ迎え入れモスクワキエフにかわるルーシ宗教的政治的な中心地定める。

※この「タタールのくびき(軛)」の解説は、「ロシアの歴史」の解説の一部です。
「タタールのくびき(軛)」を含む「ロシアの歴史」の記事については、「ロシアの歴史」の概要を参照ください。


タタールのくびき

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 15:44 UTC 版)

モンゴルのルーシ侵攻」の記事における「タタールのくびき」の解説

詳細は「タタールのくびき」を参照 モンゴル人侵略終わっても去ることはなく、ヴォルガ川下流サライの都を築いてキプチャク草原およびルーシ対す支配続けたモンゴル帝国西方管轄するジョチ・ウルスサライ黄金陣営オルド)を建て、モンゴル高原オルホン渓谷カラコルムに居を置くカアンの名のもとに支配行った1243年にはサライヤロスラフ2世呼び出しウラジーミル大公位を認めてルーシ諸公長老」として扱った。これ以後3世紀にわたりサライハンたちがルーシ諸国公ら臣従させ、ウラジーミル大公各国の公としての地位承認し貢納させるという関係が続いたノヴゴロド公国スモレンスク公国ハールィチ公国プスコフ公国などルーシ西部諸国含めルーシすべての国がモンゴル帝国に従っている。 この臣従関係を示す一般的な用語である「タタールのくびき」は、ルーシモンゴル人苛烈支配下置かれたことを示唆するものだが、実際には、征服初期臣従しない国や都市への殺戮略奪時期除けば一般的に考えられているほど残酷で抑圧的な貢納強いたというわけではない。まず、モンゴル人征服した土地にまばらにしか住み着かなかった。またモンゴル征服地の土着民に対して直接支配行わず土着民族の長を通じた間接支配好んだ農耕民族生活様式取り入れて融合してしまうことを防ぐようにという、チンギス・カン子孫たちに対して残した訓戒に、ジョチ・ウルス支配者たちは従ったといえる。つまり、十分な貢納が行われ続け限り、被支配民族日々営み干渉されことはなく、普通は支配者攻撃されるともなくそれまで通り農耕商業続けられるということであったチンギス・カンの軍が懲戒的灌漑施設破壊し将来わたって農耕できないようにさせた、中央アジア一部起こったようなこととはルーシ無縁であった。またルーシ中央アジアからのステップ通じた交易路が通る場所であり、モンゴル帝国による交易庇護によって、ルーシ通じた東洋と西洋の間の貿易機能しルーシここから利益得たタタール支配過酷だったという見解に対しては、いくつかの反駁が行える。たしかにモンゴル帝国征服戦争苛烈だったが、ひとたび支配確立すると、たとえば宗教に関して比較寛容だった。モンゴル帝国の支配層はテングリ信仰主とするシャーマニズム信じていたが、征服活動支配当たって宗教的な狂信性とは無縁であった中東征服したモンゴル人サライジョチ・ウルス支配者たちは、イスラム教正教会根絶しようとすることはなく、被征服民族影響イスラム教改宗しても、他の宗教対す寛容さを完全に捨てことはなかった。ジョチ・ウルスルーシ人対しサライ正教会主教を置くことを認めている。ジョチ・ウルス有力者ノガイ東ローマ帝国皇帝ミカエル8世パレオロゴスの娘エウフロシュネー・パレオロギナ(Ευφροσύνη Παλαιολογίνα)と結婚しノガイも娘をルーシ公に嫁がせている。 ロシア近代の歴史家(特にソビエト連邦時代歴史家や、レフ・グミリョフ影響受けたソ連崩壊後のネオ・ユーラシア主義者ら)は、むしろモンゴルの「ロシア支配」などなかったという仮説提唱する。この説では、ルーシ諸国は、西方ドイツ騎士団などローマ・カトリックからのより現実的な脅威当時正教会にとっては、カトリックこそがルーシ正教会文化対するより重大な脅威であったとする)に対して東方モンゴル諸国防衛のための同盟結んだとされるロシア革命後チェコアメリカ亡命したユーラシア主義者のジョージ・ヴェルナツキーによれば分裂進んだルーシモンゴルから専制支配制度学び、後のロシア・ツァーリ国モンゴル帝国後継国家としてユーラシア支配するになったとされる。 これら肯定的な側面存在するものの、サライ定住してからは貢納受け取単なる貴族となったモンゴル人も、ルーシに対して暴力的な側面見せている。ジョチ・ウルス属す遊牧民辺境にいるかぎり、ルーシ遊牧民侵入略奪から免れ得なかった。侵入実際に頻繁ではなかったものの、侵入ひとたび起こると、おびただしい数の犠牲者出て土地荒廃し疫病飢餓蔓延したルーシ諸国以後南方ステップからの遊牧民襲撃対す防衛国費多く割かれることになった。 またルーシ人々固定額の貢納、すなわち人頭税を払わされた。当初は、ルーシ各地バスカク代官徴税官)が住んで人々から大雑把な額の貢税ダーニ)を集めていくだけだった1259年ごろからは人口調査基づいて貢納額が定められ人々反感を買ったバスカク制は廃止され最終的に地元公ら貢納権限一任された。以後ルーシの公がルーシの民に貢納のための重い税を課しルーシの民は公ら支配するジョチ・ウルス貴族役人らに直接会う機会なくなったルーシ侵攻多く都市や町が焼き払われたが、以後都市再建停滞しステップ地帯などでは数百年にわたり都市再建が行われなかった。モンゴルに向かうローマ教皇使者プラーノ・カルピニは、途中通ったキエフ骸骨散乱する廃墟であり残った人口が僅か200世帯だったことを記録している。ヴォロネジ再建16世紀になり、リャザン再建断念され55km離れたペレスラヴリの町に中心移り現在のリャザンになった都市や、都市間を結ぶ交易路打撃受けて衰退し長年再建されなかったことは、ルーシ諸国商業手工業停滞だけでなく農村社会停滞にもつながった正教会聖堂についても、ルーシ侵攻のような石造大聖堂(たとえばウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群のような)は長い間建設されることがなく、ルーシ文化停滞みられる

※この「タタールのくびき」の解説は、「モンゴルのルーシ侵攻」の解説の一部です。
「タタールのくびき」を含む「モンゴルのルーシ侵攻」の記事については、「モンゴルのルーシ侵攻」の概要を参照ください。

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