漢委奴国王印 発音

漢委奴国王印

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/22 06:53 UTC 版)

発音

倭と奴の発音は、藤堂明保編『学研漢和大字典』(学習研究社)によると

とされる。

ただしこれは、現代の中国語方言と同様、中国の国土全体が古来単一音であったということを意味しない[23][24]ので、金印の印文の読音についても「漢語の方言論」の視点から再考すべきことが提唱されている。三宅の当時「ノ音はあってもド音はなかった」とする漢語単一論に対し、漢語方言論に基づく、地域を違えてのド音とノ音(ナ音)の同時並存説がある。久米雅雄は前漢の揚雄が著した『方言』や『漢書』西域伝に登場する「難兜国」へ頒給された印章「新難兜騎君」印に注目し、漢代には上古北方漢音系の「ど」と上古南方呉音系の「な」「の」が並存したとする説を提唱している[25][26][27]

中国史との比定

『後漢書』の記述との対応

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」 — 強調引用者

という記述があり、後漢光武帝建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。

中国漢代の制度では、冊封された周辺諸国のうちで王号を持つ者(外臣)に対しては、内臣である諸侯王が授けられるよりも一段低い金の印が授けられた(詳しくは印綬の項を参照)。

滇王之印との対応

1955年(昭和30年)より発掘調査が始まった中華人民共和国雲南省晋寧県の石寨(せきさい)山遺跡(石寨山古墓群遺跡)からは50基の土坑墓や、青銅器を主とする副葬品4000点あまりが出土した。このうち1956年(昭和31年)の第2次発掘で6号墓より「滇王之印」と書かれた金印などが発掘されており、古代の国家王の印とされている。またこの金印出土により、この古墳群が古代滇国の国王および王族の墓地(石寨山滇国王族墓)であることが判明した。滇王之印の外形は印面一辺2.4 cmの方形、高さ2 cm、重さ90 g。上面のは蛇鈕である。印文は陰刻「滇王之印」の四字二行。

その寸法の形式から明らかに漢印であり、『史記』西南夷列伝の、武帝元封2年(紀元前109年)に滇王へ王印を下賜したという記事に対応する[28]

西嶋定生はこの王之印と日本の福岡で出土した漢委奴国王印が形式的に同一であることを指摘しており[29]、両印ともに蛇鈕であり、その年代は紀元前109年57年というおよそ166年の隔たりがあるが、ともに外民族の王が漢王朝に冊封を受けたしるしであったとしている。

廣陵王璽との対応

1981年(昭和56年)、中華人民共和国江蘇省揚州市外の甘泉2号墳で「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」の金印が出土した。2.3 cmの正方形、高さ2.1 cm、123 g[30]それは永平元年(58年)に光武帝の第9子で廣陵王だった劉荊に下賜されたものであり、字体が漢委奴国王印と似通っていることなどから、2つの金印は同じ工房で作られた可能性が高いとされる。西嶋定生は廣陵王璽金印は箱彫りで漢委奴国王印は薬研彫りであること、志賀島の金印の綬色は紫綬であるのに対して、廣陵王璽は「印」でなく「」とあることからその綬色は赤綬か綟綬(レイ:緑色)ではないかということを指摘した上で、蛍光X線分析による元素測定が待たれるとした[31]。これに対し高倉洋彰は、漢委奴国王印と廣陵王璽は共に薬研彫りとして、鈕を飾る亀の甲羅の縁に魚子文の印刻がある点が共通し、これらは2つの金印を制作した工房の一致を窺わせるとする[12]

その他

1936年、現ベトナムタインホア省Tat Ngôで「晉帰義叟王」との刻印のある金印が発見されている。西晋朝との関係が推測されている[32]

偽造説

形式・発見の経緯に不自然な点があるとして、中世近世に偽造された贋作であるとの説が、これまで幾度も唱えられてきた。1836年に、国学者の松浦道輔(1801年-1866年)が偽造説を唱えたのが初めといわれる。

考古学的にいえば、出土がこれほどまでに不明確なものは本来ならば史料として扱うのは困難である。それが史料として扱われてきたのは、ひとえに『後漢書』の「印綬」がこれであるという認識のみからに他ならない。

また、印綬の形式が漢の礼制に合わないという意見もあった。これに対しては、漢代といっても時代が異なるが、蛇鈕を持つ滇王之印の発見をもって漢の礼制に合うとする意見もある。

ほか、三浦佑之は著書『金印偽造事件―「漢委奴國王」のまぼろし』において、

  • 発見地点の付近では、奴国に関する遺構が一切見つかっていない
  • 発見時の記録にあいまいな点が多いこと
  • 江戸時代の技術なら十分贋作が作れること
  • 王之印に比べると稚拙

などの点を根拠に亀井南冥らによる偽造説を唱えた[33]。なお、三浦は、南冥は才能ある学者であるが、策士で野心家でもあった。金印の発見は南冥が福岡藩に2つある藩校の1つの館主に就いた直後であった。南冥は競争相手の藩校を出し抜くために役人、商人と結託して金印を偽造したのではないかという。

それに対し、高倉洋彰

  • 漢代の一寸の実長が判明するまでには長い研究の積み重ねが有り、これが実証されたのは20世紀も後半である。江戸時代以前に知ることは困難で、官印の拓影や封泥などを測れば分かりそうに思えるが、出回っていた印譜集などを測ってもまちまちな数字になってしまう。
  • もし、贋作者が漢代の官印が方一寸であるのを知るとしたら『漢旧儀』から得たとしか考えられないが、その『漢旧儀』に蛇鈕は載っていない。もし偽物を造るなら、『漢旧儀』に載った亀鈕か、駱駝鈕にするはずである。また、蛇鈕には前漢から晋代までの時代により明確に4段階に分けられるが、漢委奴國王印はその変遷と矛盾しない。江戸時代に、蛇鈕の時代的変遷を知ることは不可能である。
  • 「漢委奴國王」の文字も、偽作するなら『後漢書』の記述に従って「委」を「倭」にする方が自然である。更に「王朝名+民族名+部族名+官職名」とする印文の構成は、匈奴印や叟印と一致しており、これが偶然の一致とは考えられない。

などを論拠に、江戸時代及びそれ以前においては、日本国内はもとより中国であっても知識と情報量が圧倒的に不足しており、偽作は不可能としている[12][34]

また、安本美典は偽物に「倭」ではなく「委」を使用するのは不自然とする。また同一工房で同時期に「廣陵王璽」と「漢倭奴国王」の金印が製作されたとして

  • 辺長が、後漢時代の一寸に合っている。
  • 鈕にある魚子鏨(ななこたがね)の文様は、同一の(たがね)によって打ち出されている。
  • 文字は、Ц型とV型の箱彫りに近い形で彫られ、字体もよく似ている。

という点を指摘する[35]。更に安本は、上述の高倉論文を踏まえて

  • 印文の「漢」の字に近い字体は、江戸時代に入手可能な『顧氏集古印藪』『甘氏印正(集古印正)』『宣和集古印譜』といった印譜集には殆ど見られない。
  • 僅かに『宣和集古印譜』に2点類例があるものの、同書では「親魏倭王[注釈 5]など「委」に人編が付いている。同書を元に偽造するなら、「倭」とするのが自然である。「倭」の字は人編を取らねばならないほど複雑な字ではない。また後漢時代、「委」と「倭」は共に「わ」に近い音だったが、江戸時代には「委」は「ゐ」、「倭」は「わ」に近い音である。
  • 『宣和集古印譜』には蛇鈕は一つも載っておらず、他の二著でも同様である。もし偽作するなら、同書の「親魏倭王」と同様に、銅印亀鈕にするはずである。
  • 王之印」と印台の高さ、総高、重さを比較すると、金印のほうがやや大きいものの160-70年の制作年の開きを考慮すれば、ほぼ同じ規格で作られていると見てよい。また両者の金の含有量は近く、印全体の印台の占める割合も一致しており、これを偶然とは見なし難い。

これらの論拠から、金印は摩耗が少なく使用された形跡が殆ど無いなど偽作説にやや有利な材料もあるものの、真印と考えた場合の不都合さと、偽印と考えた場合の不都合さを比較すれば、現状真印である可能性のほうが高いとしている[37]

宮崎市定は著書『謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本』で、同僚の中村直勝[38]から、金印の真物が2個存在することを聞かされたと記している[39]

工芸文化研究所理事長の鈴木勉は、著書『「漢委奴國王」金印・誕生時空論』で、

  • 廣陵王璽は下書き通りの文字線を忠実に彫ることに適さない「線彫り」で作られている。
  • 「漢委奴國王」金印の文字線は布置(印面のデザイン)を忠実に再現する技法である「浚い彫り」を採用している。
  • 魚々子文様の各部寸法の測定結果では外形が異なることから、両印の魚々子文様に同じたがねは使用されていない。

ことを指摘し、同一時期の同一工房ではないとした。これにより「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」は兄弟印ではないとし、光武帝下賜説の論拠が失われたとしている[40]

2005年、廣陵王璽の蛍光X線分析がおこなわれたが、南京博物館が拒否しているという理由で分析結果は公表されていない。


注釈

  1. ^ 2007 ccメートルグラスに金印を入れ、増水量を三度測った平均値。
  2. ^ 金と銀だけなら22.5K。
  3. ^ 三雲⇒井原鑓溝⇒平原遺跡など大量の鏡を伴う紀元前1世紀頃 - 後3世紀頃にかけての王墓が伊都国糸島市付近)に集中していること『魏志倭人伝』の記述では、「伊都国」には「世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐」と歴代複数の王の存在が明記されているのに対し、「奴国」には王の存在を示す記事、あるいは「かつて奴国に王あり」といった記載がなく、中国は「伊都国王」を承認の王としているとする[21]
  4. ^ 二松學舍大学名誉教授・大谷光男は、『後漢書』から皇帝が周辺の蛮夷に授けた金印紫綬の史料7例を再検討し「金印紫綬は、一国(国家)に授け、国内の一部族(国)に授けられることはなかった。したがって、金印『漢委奴国王』の読み方で、『カンのワのナのコクオウ』と訓む三宅説は退けられることになる」[22]としているが、そもそも一国と一部族(民族)の定義や概念そのものを問うている論争なので、「倭」と「奴」と「委奴」がそれぞれ一体どのような範囲の何を示すものなのかが定まらない以上、それぞれの説を退ける退けないの結論はいまだ出ていない
  5. ^ 同書には「親魏倭王」の印譜が収められてるが、20世紀の出土品などと比べると「王」字が時代変遷に合致せず、真印ではなく偽作の模刻陰影だと考えられる[36]

出典

  1. ^ 金印〈印文「漢委奴國王」/〉文化庁国指定文化財等データベース
  2. ^ 『赤煉瓦の記――福岡市立歴史資料館の歩み――』福岡市教育委員会発行 P22
  3. ^ 『赤煉瓦の記――福岡市立歴史資料館の歩み――』福岡市教育委員会発行 P25
  4. ^ a b 金印-文化財情報検索-福岡市.
  5. ^ a b 日本放送協会. “金印は本物? 真偽めぐる論争過熱|NHK”. NHK NEWS WEB. 2023年9月4日閲覧。
  6. ^ 金印レプリカ”. (公財)福岡市文化芸術振興財団オンラインショップ. 2023年9月4日閲覧。
  7. ^ 岡崎敬「「漢委奴国王」金印の測定」『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収
  8. ^ 「北方」とあるが、叶ノ浜は志賀島の南西の海岸。
  9. ^ 金印公園 | 文化財情報検索”. 福岡市の文化財. 2023年9月4日閲覧。
  10. ^ 入田整三「国宝漢委奴國王金印の寸法と量目」『考古学雑誌』、1933年、岡崎敬『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収
  11. ^ 岡部長章「奴国王金印問題評論」『鈴木俊教授還暦記念東洋史論叢』、1964年、岡崎敬『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収
  12. ^ a b c d 高倉 (2007)
  13. ^ 亀井南冥『金印辨』1784年。 
  14. ^ 竹田定良『金印議』1784年。 
  15. ^ 三宅米吉「漢委奴国王印考」『史学雑誌』、1892年明治25年)。
  16. ^ 藤貞幹『藤貞幹考』1784年。 
  17. ^ 上田秋成『漢委奴国王金印之考』1785年。 
  18. ^ 青柳種信『後漢金印略考』1812年。 
  19. ^ 福岡藩『黒田新続家譜』1844年。 
  20. ^ 久米雅雄「金印奴国説への反論」『藤澤一夫先生古稀記念古文化論叢』、藤澤一夫先生古稀記念論集刊行会、1983年、大谷光男編著『金印研究論文集成』、新人物往来社、1994年
  21. ^ 久米雅雄「晋率善羌中郎将銀印及周辺歴史之研究」『国際印学研討会論文集』中国・西泠印社、2003年
  22. ^ 「金印蛇鈕『漢委奴国王』に関する管見」『東洋研究』第179号、大東文化大学東洋研究所、2011年
  23. ^ 王育徳「中国の方言」方言史『中国文化叢書1 言語』 大修館書店、1967年
  24. ^ 坂井健一『魏晋南北朝字音研究―経典釈文所引音義攷』 汲古書院、1975年
  25. ^ 久米雅雄『日本印章史の研究』 雄山閣、2004年
  26. ^ 久米雅雄「国宝金印『漢委奴国王』の読み方と志賀島発見の謎」『立命館大学考古学論集 IV』 立命館大学、2005年、55-68頁
  27. ^ 久米雅雄「国宝金印の読み方」『月刊書道界』2009年8月号、藤樹社
  28. ^ 西嶋 1994, p. 87.
  29. ^ 西嶋 1994, p. 88.
  30. ^ 廣陵王璽 ブリタニカ国際大百科事典
  31. ^ 西嶋 1994, p. 52 - 54.
  32. ^ 西村昌也「ベトナム形成史における"南"からの視点 考古学・古代学からみた中部ベトナム(チャンパ)と北部南域(タインホア・ゲアン地方)の役割」『周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』』、関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)、2012年3月1日、105-141頁、NAID 120005686780 
  33. ^ 三浦佑之『金印偽造事件―「漢委奴國王」のまぼろし』 幻冬舎新書、2006年 ISBN 4-344-98014-X
  34. ^ 志賀島「金印」に偽造説再燃 地元の反応は複雑、asahi.com、2007年3月3日
  35. ^ 第267回活動記録、邪馬台国の会、2008年3月30日
  36. ^ 久米雅雄 「大阪府立近つ飛鳥博物館所蔵駝鈕銀印『晋善羌中郎将』印とその史的周辺」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報7』2002年8月30日
  37. ^ 安本美典 「奇怪な印譜『宜和集古印史』 「親魏倭王」「漢委奴国王」をめぐる真贋論争」『季刊 邪馬台国』120号、2014年1月、pp.27-57。
  38. ^ 中村直勝(1890年 - 1976年)は中世荘園史、南北朝史、古文書学の研究で知られる日本史学者。
  39. ^ 宮崎市定『謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本』 中公文庫1992年、18頁 ISBN 4-12-201869-2
  40. ^ 鈴木勉『「漢委奴國王」金印・誕生時空論』 雄山閣、2010年、ISBN 978-4-639-02117-9
  41. ^ 【衝撃の事実、発覚】(2020年5月10日)2021年1月9日閲覧





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