解体新書
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経緯
明和8年(1771年)3月4日、蘭方医の杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らは、小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を見学した。玄白と良沢の2人はオランダ渡りの解剖学書『ターヘル・アナトミア』こと "Ontleedkundige Tafelen " をそれぞれ所持していた。玄白は実際の解剖と見比べて『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚嘆し、これを翻訳しようと良沢に提案する。かねてから蘭書翻訳の志を抱いていた良沢はこれに賛同し、淳庵も加えて翌日3月5日から良沢邸に集まって翻訳を開始した。
当初、玄白と淳庵はオランダ語を読めず、オランダ語の知識のある良沢も翻訳を行うには語彙が乏しかった。オランダ語の通詞は長崎にいるので質問することも難しく、当然ながら辞書も無かったため、翻訳作業は暗号解読に近かった(この様子については玄白晩年の著書『蘭学事始』に詳しい[13])。玄白は、この厳しい翻訳の状況を「櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう」と表した[13]。安永2年(1773年)、翻訳の目処がついたため、世間の反応を確かめるために『解体約図』を刊行している[13]。
安永3年(1774年)、4年を経て『解体新書』が刊行された。玄白の友人で奥医師の桂川甫三(甫周の父)が『解体新書』を将軍に献上した。
関わった人物
- 前野良沢は翻訳作業の中心であったが、著者としての名は『解体新書』にない。一説には、良沢が長崎留学の途中で天満宮に学業成就を祈ったとき、自分の名前を上げるために勉学するのではないと約束したので名前を出すのを断ったという。また一説には、訳文が完全なものでないことを知っていたので、学究肌の良沢は名前を出すことを潔しとしなかったのだという。
- 杉田玄白は「私は多病であり年もとっている。いつ死ぬかわからない」と言って、訳文に不完全なところがあることは知りながら刊行を急いだ(『解体約図』の出版も玄白の意図であり、これに対して良沢は不快を示していたと言われている)。しかし彼は、当時としては長命の83歳まで生きた。
- 中川淳庵は『解体新書』刊行後も蘭語の学習を続け、桂川甫周と共にスウェーデンの博物学者カール・ツンベリーに教えを受けている。
- 桂川甫三は杉田玄白と同世代の友人。法眼の地位にあり、将軍の侍医を務めた。翻訳作業に直接関わった様子はないが、子の甫周を参加させた。また補助資料となる3冊のオランダ医学書を提供している。『解体新書』刊行の際、幕府の禁忌に触れる可能性があったため、甫三を通じて大奥に献上されている。
- 桂川甫周は甫三の子で、後に自身も法眼となる。翻訳作業の初期から関わったという。のちに大槻玄沢とともに蘭学の発展に貢献する。
その他に翻訳作業に関わった者は、巻頭に名前が出てくる石川玄常、『蘭学事始』に名前が出てくる烏山松圓、桐山正哲、嶺春泰などがいる。
- 吉雄耕牛(吉雄永章)はオランダ語通詞で、『解体新書』序文を書き、この書が良沢と玄白の力作であると賞揚している。
- 平賀源内は、1774年(安永3年)正月に杉田玄白宅を訪問、『解体新書』の本文の翻訳がほぼ完成し、解剖図の画家を捜していることを知らされた際、小田野直武を紹介した。
- 小田野直武は秋田藩角館の藩士、画家。平賀源内の紹介で『解体新書』の図版の原画を描くことになった。『解体新書』の開版まで半年という短期間に、江戸での最初の仕事で、しかも日本学術史上記録的な仕事を成し遂げた。
『解体新書』の内容
『解体新書』は一般に『ターヘル・アナトミア』の翻訳書といわれているが、それ以外にも『トンミュス解体書』『ブランカール解体書』『カスパル解体書』『コイテル解体書』『アンブル外科書解体篇』『ヘスリンキース解体書』『パルヘイン解体書』『バルシトス解体書』『ミスケル解体書』などが参考にされており、表紙は『ワルエルダ解剖書』から採られている。また和漢の説も引かれている。単純な逐語訳ではなく、杉田玄白らの手によって再構成された書である。
また、各所に「翼按ずるに」と注釈がつけられている。ここに見られる「翼」は杉田玄白の本名である。
本文は4巻に分かれている。それぞれの内容は以下のとおり。図は別に1冊にまとめられている。
- 巻の一
- 巻の二
- 巻の三
- 巻の四
注釈
- ^ 日本語音写例:アナトーミッシェ タベレン。cf. 発音の出典:wikt:en:anatomisch, wikt:en:Tabellen
- ^ 日本語音写例:オントレートクンディヘ ターフェレ。最後の n は黙字(発音しない表音文字)。
- ^ 「ターヘル・アナトミア / ターヘルアナトミア」は和製のオランダ語(和製外来語のオランダ語版)で、語構成は[ nl: tafel〈=table、机。※中期オランダ語 "tafele" の語義の一つに「list;リスト」がある〉+ anatomie〈=anatomy、解剖学〉]。誤解されているケースや、説明不足になっているケースが非常に多いが、『ターヘル・アナトミア』は『解体新書』の底本である蘭訳本を指すのであって、原書たるクルムスの "Anatomische Tabellen " のことではない。なお、先述してもいるが、原書に日本語名は無い。
出典
- ^ a b c 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』. “解体新書”. コトバンク. 2019年11月12日閲覧。
- ^ a b 小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』. “解体新書”. コトバンク. 2019年11月12日閲覧。
- ^ “クルムス”. コトバンク. 2019年11月12日閲覧。
- ^ “《Anatomische Tabellen》”. コトバンク. 2019年11月12日閲覧。
- ^ a b “ターヘル・アナトミア”. コトバンク. 2019年11月12日閲覧。
- ^ “ターヘルアナトミア”. コトバンク. 2019年11月12日閲覧。
- ^ 小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』. “解体新書”. コトバンク. 2019年11月12日閲覧。 “一般に『ターヘル・アナトミア』とよばれている原書は、正しくは、ドイツのクルムスJohann Adam Kulmusが1722年に著した『解剖図譜』Anatomische Tabellenを、ライデンのディクテンGerardus Dictenがオランダ語訳した『Ontleedkundige Tafelen』(1741)で、杉田玄白らが依拠したのはその第2版であった。”
- ^ “解体新書”. コトバンク. 2019年11月12日閲覧。
- ^ a b 平凡社『百科事典マイペディア』. “解体新書”. コトバンク. 2019年11月12日閲覧。
- ^ 平凡社『世界大百科事典』第2版. “解体新書”. コトバンク. 2019年11月12日閲覧。 “日本最初の本格的洋書翻訳書”
- ^ 三省堂『大辞林』第3版. “解体新書”. コトバンク. 2019年11月12日閲覧。
- ^ 小学館『デジタル大辞泉』. “解体新書”. コトバンク. 2019年11月12日閲覧。
- ^ a b c “蘭學事始 - Wikisource”. ja.wikisource.org. 2023年7月14日閲覧。
- ^ “解体新書がやってきた!”. 鳥取県立図書館. 2022年12月29日閲覧。
固有名詞の分類
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