落合謙太郎 落合謙太郎の概要

落合謙太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/12 15:37 UTC 版)

生涯

落合謙太郎は、1870年3月22日(明治3年2月21日)、近江国浅井郡川道村(後の滋賀県東浅井郡大郷村、現・長浜市川道町)に落合孝平とといとの間に生まれた。1881年(明治14年)10月に巴水学校高等小学校を卒業した後、京都の神山鳳陽塾に入学し漢学を学ぶが馴染めず帰郷した。

1885年(明治18年)大阪文部省直轄大学分校予備科(後に第三高等中学校に改称し、学制改正により第三高等学校になる)第五級に編入し、1892年(明治25年)7月に第三高等中学校本科を卒業、9月に帝国大学法科大学政治学科へ入学した。

1895年(明治28年)帝国大学法科大学を卒業後、外務官及び領事官試験に合格し外務省に入省した[1][2]

ポーツマス会議。向こう側左からコロストウェツ、ナボコフ、ウィッテローゼン、プランソン、手前左から安達落合小村高平、佐藤。
会議で使われた写真中のテーブル博物館明治村にて展示されている

京城杭州領事官を務め、ロシア公使館、本省政務局、フランス公使館に在勤した。ロシア在勤経験から、日露戦争の開戦を推進・画策した外務省、陸軍、海軍の少壮有志によるグループ湖月会メンバーであった。1905年(明治38年)日露講和会議全権委員(小村寿太郎)首席書記官としてポーツマス条約締結に奔走し、また清国特派全権大使首席書記官として満州善後条約調印を推進した。その後、再びロシア駐在となり、1911年(明治44年)に辛亥革命直後の奉天に赴任し第4代奉天総領事兼関東都督府事務官に任じられた[1][2]

奉天総領事は外務省2期後輩から引き継いだ人事であったが、辛亥革命以降の満州における日本権益保持と総領事館体制の強化を謀る上で、ポーツマス会議に出席し満洲を理解し、満洲善後条約締結に関与し清国政府について熟知している落合が適任とされた。特に満洲における革命派への取り締まりに対して、中立的立場を堅持しようとする外務省と不穏分子摘発に重きを置く軍部(関東都督府)との間の対立があり、外務省は軍部の動きを外交への関与と批判した。1912年(明治45年)2月2日、清王朝存続に見切りを付けた粛親王は北京を脱出し旅順の関東都督府に赴き、大日本帝国陸軍張作霖の力を借り満蒙(満洲・内蒙古)独立を画策したことに対して、この動きを察知した落合は外務大臣内田康哉に連絡を取り、未然に粛親王と軍部による暴発を防いだ(第一次満蒙独立運動)、また川島浪速などの動きを絶えず警戒した。また、対華21カ条要求に端を発した日貨排斥運動に対しては、寛容な態度を日本人・清国人双方に求め、取り締まりに対して穏便な対応を都督府に求めた結果、奉天において大きな衝突を招くことは防がれた[2][3]

その後、イタリア王国大使館参事官、1915年(大正4年)にオランダ王国デンマーク王国特命全権公使としてハーグに赴任した。1919年(大正8年)2月には、第一次世界大戦講和会議(パリ講和会議)全権委員(西園寺公望牧野伸顕)の随員を命じられヴェルサイユ条約連合国の一国として折衝に参加し、12月帰国した。また、1920年(大正9年)1月から6月まで平和条約実施委員として再度ヨーロッパに赴任し、条約履行状況の監視をおこなった。また、実施委員が解かれた後は、イタリア王国特命全権大使となった[1][2]

1922年(大正11年)11月、スイスローザンヌで開かれたの近東和平会議には全権委員となり、ローザンヌ条約トルコ共和国アンカラ政権)と日本、イギリス、フランス、イタリア王国、ギリシャルーマニア王国ユーゴスラビア王国(当時の国号は「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」)の間で調印した。1924年(大正13年)3月には、イタリア王国・ローマでの移民国際会議に代表委員として参加し、アメリカにおける移民制限の動きを念頭に置き人種差別撤廃決議案を提出する、1926年(大正15年)6月4日、帰国途中の船中で死去した[1][2]。なお、アメリカにおける移民制限は、同年7月1日に施行されたアメリカ合衆国「1924年移民法」(通称排日移民法)により、東ヨーロッパ南ヨーロッパアジア出身者の移民を厳しく制限することを目的とし、特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられてしまった(当時アジアからの移民の大半を占めていた日本人が排除されることとなった)。

追悼文

私と落合氏は中学の同窓で、高等学校から大学まで一緒に過ごし、共に明治28年外務省に入った。落合氏は常に外国廻りをしており、語学は英・仏・独・露語に堪能であった。国際会議にはポーツマス会議に随員として加わり、パリ会議には事務総長格として働き、またローザンヌには全権として臨んだ、外交官型の几帳面な性格で、事務手腕に富んだ剛直な人物であった。頭脳明晰なことは同期生中第一であろう。今度は夫人を伴っての帰国であったが、お子さんは一人もいない。(中略)肉腫が大きくなって腹膜炎を起こしたので、大事すれば神戸までもつであろうとのことで、一目故国の山河を見せたいと思っていた。
  • 小村欣一侯爵(小村寿太郎長男)[1]
落合氏は日本には家はなく帰朝するごとに大阪の親族の家に泊まると言った淋しい気の毒な外国生活が非常に永かった人です。今度の帰朝の途につく際もムッソリーニ首相がわざわざ書面で落合大使の健康回復を切に祈り、かつ慰めて来たぐらいイタリアでは人気のあった外交官だったのに…。

  1. ^ a b c d e f 落合謙次(著) 落合秀雄(編)『落合謙太郎小伝 湖国が生んだ外交官 身内史』シンセイ印刷、1993年、[要ページ番号]
  2. ^ a b c d e 臼井勝美、他(編)『日本近現代人名辞典』吉川弘文館、2001年、p.245(「落合謙太郎」の項)
  3. ^ 井上勇一「在奉天総領事落合謙太郎 在奉天総領事の見た満州問題」『法學研究 : 法律・政治・社会』第85巻5号、慶應義塾大学法学研究会、2012年5月、pp.1 - 31
  4. ^ 『官報』第3110号「叙任及辞令」1922年12月12日。
  5. ^ 『官報』第7690号・付録「辞令」1909年2月17日。
  6. ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  7. ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。


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