白川伯王家 白川伯王家の概要

白川伯王家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/18 08:22 UTC 版)

白川家
昭和34年(1959年)滅亡
うめ
本姓 花山源氏嫡流
家祖 源顕康
種別 公家半家
華族子爵
出身地 山城国
主な根拠地 山城国
著名な人物 延信王
資邦王
支流、分家 品川氏武家
凡例 / Category:日本の氏族

歴史

白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上源氏である。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して神祇官長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。

白川伯王家の成立

白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「」を名乗ったことである。「王」の身位天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない[注釈 1]。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。

延信王は、万寿2年(1025年)に源姓を賜り臣籍降下して、寛徳3年(1046年)に神祇伯に任ぜられた。なお、当時の呼称は「源」または「王」であり、その後の時代に、「白川家」や「伯家」「白川王家」と呼ばれるようになる。延信王以後、康資王、顕康王、顕広王と白川家の人物が神祇伯に補任されているが[注釈 2]、この時期はまだ神祇伯は世襲ではなく、王氏、源氏及び大中臣氏が補任されるものと認識されており、事実、先の四名の間に大中臣氏が補任されている。

顕広王は本来は源氏であり、神祇伯就任とともに王氏に復し、退任後に源氏に戻る最初の例となっており[注釈 3]、以下に示す経過により、顕広王の王氏復帰をもって白川家の成立とみなすことが多い[注釈 4]

顕広王の王氏復帰の背景には、神祇、すなわちを祀るという、朝廷にとって最も重要な行為を行う神祇官の長官である「神祇伯」という職務の重要性と、源氏という最も高貴な血筋、及び顕広王の室で仲資王の母が大中臣氏である上に、顕康王が有力な村上源氏源顕房猶子となっているなどの諸般の事情があったと考えられている。顕広王の子である仲資王(源仲資)が顕広王の後を継いで神祇伯となり、仲資王の退任後その子の業資王(源業資)が神祇伯に任ぜられ、その後業資王が急死して弟の資宗王(源資宗)が神祇伯に任ぜられるために源氏から王氏に復し、これらが先例となり、以後、白川家による神祇伯の世襲化と神祇伯就任による王氏復帰が行われるようになったのである。

なお「白川」の呼称は13世紀中期以降、資邦王の代から見られるようになる[2]

吉田家との地位逆転

室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏吉田兼倶吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた。

家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。

江戸時代の家禄は200石[注釈 5]。他に神祇領・神事料100石。

明治以降

明治時代になると王号を返上し、明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると白川家も公家として華族に列した[3][4]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 6]として白川家の当主の資訓子爵に叙せられた[1]

資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄北白川宮能久親王庶子)の男子の久雄を養子に迎えたが、1954年にこの養子縁組は解消[6]となり、昭和34年(1959年)の資長の死去をもって白川家は絶家した。

「神祇伯家学則」にある神道の大要

  • 神道というものは、古今を通じて変わらない根本原則であり、いずれの国においても通用する大道であり、神道と武道相撲を含む)は一つであり、身を修め、家を整え、国を治めるといったことの要領も、『古事記』・『日本書紀』・『古語拾遺』等の皇典を研鑚するうちにわかる。」とある。

注釈

  1. ^ 詳しくは皇族を参照。
  2. ^ ただし顕康王に関しては確証がないとの見方がある。
  3. ^ ただし顕広王は神祇伯就任以前から王氏であった可能性も指摘されている。
  4. ^ 13世紀初頭の資宗王によって成立したという見解もある。
  5. ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の万里小路家領は、山城国葛野郡松尾谷村のうち34石1斗5升6合9勺、山城国葛野郡松室村のうち20石7斗2升9合8勺、山城国葛野郡上山田村のうち11石1斗8升8合、山城国乙訓郡下植野村のうち50石、山城国乙訓郡石見上里村のうち37石7斗、山城国紀伊郡下三栖村のうち8石7斗5升7合、山城国紀伊郡吉祥院村のうち31石3斗、山城国紀伊郡深草村のうち6石2斗9升7合であり合計8村・200石1斗2升8合7勺。
  6. ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた[5]
  7. ^ 祖父・清仁親王の養子とも。
  8. ^ 村上源氏源顕房の猶子。
  9. ^ 中院通為の2男。
  10. ^ 高倉永孝の子。
  11. ^ 加賀藩士となる。
  12. ^ 梅溪通条の子。
  13. ^ 梅溪行通の子。
  14. ^ 冷泉為起の子。
  15. ^ 上野正雄の子。

出典

  1. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 332.
  2. ^ 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典第11巻』(吉川弘文館1983年昭和59年))617頁参照。
  3. ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
  4. ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
  5. ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
  6. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』(霞会館1996年平成9年)) 763頁参照。


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