白川伯王家の成立とは? わかりやすく解説

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白川伯王家の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 06:22 UTC 版)

白川伯王家」の記事における「白川伯王家の成立」の解説

白川家特徴は、神祇伯世襲と、神祇伯就任とともに「王」名乗ったことである。「王」身位天皇との血縁関係決まり、本来は官職付随する性質のものではない。非皇族ありながら王号世襲行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家成立について説明する延信王は、万寿2年1025年)に源姓賜り臣籍降下して、寛徳3年1046年)に神祇伯に任ぜられた。なお、当時呼称は「源」または「王」であり、その後時代に、「白川家」や「伯家」「白川王家」と呼ばれるうになる延信王以後康資王顕康王顕広王白川家人物神祇伯補任されているが、この時期はまだ神祇伯世襲ではなく王氏源氏及び大中臣氏補任されるものと認識されており、事実先の四名の間に大中臣氏補任されている。 顕広王は本来は源氏であり、神祇伯就任とともに王氏復し退任後に源氏に戻る最初の例となっており、以下に示す経過により、顕広王王氏復帰をもって白川家成立とみなすことが多い。 顕広王王氏復帰背景には、神祇、すなわち神を祀るという、朝廷にとって最も重要な行為を行う神祇官長官である「神祇伯」という職務重要性と、源氏という最も高貴な血筋、及び顕広王の室で仲資王の母が大中臣氏である上に、顕康王有力な村上源氏源顕房猶子となっているなどの諸般の事情があったと考えられている。顕広王の子である仲資王源仲資)が顕広王の後を継いで神祇伯となり、仲資王退任その子業資王(源業資)が神祇伯に任ぜられ、その後業資王急死して弟の資宗王(源資宗)が神祇伯に任ぜられるために源氏から王氏復し、これらが先例となり、以後白川家による神祇伯世襲化と神祇伯就任による王氏復帰が行われるようになったのである。 なお「白川」の呼称13世紀中期以降、資邦王の代から見られるうになる

※この「白川伯王家の成立」の解説は、「白川伯王家」の解説の一部です。
「白川伯王家の成立」を含む「白川伯王家」の記事については、「白川伯王家」の概要を参照ください。

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