白川伯王家の成立
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白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「王」を名乗ったことである。「王」の身位は天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。 延信王は、万寿2年(1025年)に源姓を賜り臣籍降下して、寛徳3年(1046年)に神祇伯に任ぜられた。なお、当時の呼称は「源」または「王」であり、その後の時代に、「白川家」や「伯家」「白川王家」と呼ばれるようになる。延信王以後、康資王、顕康王、顕広王と白川家の人物が神祇伯に補任されているが、この時期はまだ神祇伯は世襲ではなく、王氏、源氏及び大中臣氏が補任されるものと認識されており、事実、先の四名の間に大中臣氏が補任されている。 顕広王は本来は源氏であり、神祇伯就任とともに王氏に復し、退任後に源氏に戻る最初の例となっており、以下に示す経過により、顕広王の王氏復帰をもって白川家の成立とみなすことが多い。 顕広王の王氏復帰の背景には、神祇、すなわち神を祀るという、朝廷にとって最も重要な行為を行う神祇官の長官である「神祇伯」という職務の重要性と、源氏という最も高貴な血筋、及び顕広王の室で仲資王の母が大中臣氏である上に、顕康王が有力な村上源氏の源顕房の猶子となっているなどの諸般の事情があったと考えられている。顕広王の子である仲資王(源仲資)が顕広王の後を継いで神祇伯となり、仲資王の退任後その子の業資王(源業資)が神祇伯に任ぜられ、その後業資王が急死して弟の資宗王(源資宗)が神祇伯に任ぜられるために源氏から王氏に復し、これらが先例となり、以後、白川家による神祇伯の世襲化と神祇伯就任による王氏復帰が行われるようになったのである。 なお「白川」の呼称は13世紀中期以降、資邦王の代から見られるようになる。
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