岩波映画製作所 岩波映画製作所の概要

岩波映画製作所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/29 22:33 UTC 版)

概要

雪の人工結晶などの作成など低温科学で有名な北海道大学教授中谷宇吉郎が中心となって1949年に設立した中谷プロダクションが前身となって、岩波書店小林勇、映画カメラマンの吉野馨治[注 1]らによって、新しい科学映画を製作することを目的に設立された。やがて、ATGで活躍する羽仁進黒木和雄や、評論家の田原総一朗保守派の論客である入江隆則など、各界に多くの人材を輩出している。第1作は中谷宇吉郎指導、吉野馨治撮影の「凸レンズ」(1950年)である[2]。 創立当初から1968年(昭和43年)に、日本映画社出身の小口禎三が社長に就任するまでの間、社長ポストは空席のまま、岩波書店の専務でもあった小林勇が、代表取締役専務として実質経営していたが、岩波書店、岩波ホールとの資本関係はなかった。1998年(平成10年)に倒産。残された作品は、2000年(平成12年)に破産管財人から、日立製作所へ売却された。2009年に記録映画アーカイブプロジェクトに日立製作所から岩波芸画のフィルム約4000本が寄贈され、東京大学と東京藝術大学が受け入れ先となった。著作権や所有権処理の実務は記録映画保存センターが担当した[3][4]。その後、岩波映画の後身企業である「岩波映像」がDVDを販売していたが、2022年4月30日に会社は解散し、作品の著作権は記録映画保存センターに移転した。

岩波映画は大きく分けて3つの分野の作品を製作した。1つはさまざまな企業をスポンサーとした産業映画である。産業映画では「佐久間ダム」シリーズ(1954-59年)をはじめ、電力、造船、製鉄、電機メーカーなど日本の主要な大企業が名を連ねている[3]。2つめは物理や化学、生命や医療など、科学的な原理や現象、ものの見方を紹介するために作られた科学映画である。設立者の中谷は映画を使って戦後の理想的な科学教育を実践しようとした。岩波映画はテレビの科学映画の草分けと言われる「たのしい科学シリーズ」(1957-62年:日本テレビ系)や、科学の基礎概念を教えるための教材映画「科学教育映画体系」シリーズ(1967-73年)など多数の優れた科学映画を製作した。これらの映画は今見ても新鮮な驚きと発見に満ちている[5]。 第3の分野は人々の暮らしや生活を描いた教育映画や社会教育映画である。岩波映画独自の科学的な観察眼は人々の生活にも向けられた。こどもたちの自然な表情をとらえて当時の映画界に衝撃を与えた羽仁進の「教室の子供たち」(1955年)、羽田澄子の「村の婦人学級」(1957年)、時枝敏江の「町の政治」(1967年)、土本典昭の「ある機関助士」(1963年)などがある[6]

岩波映画は当時の企業としては珍しい民主的な会社で、男女差別がなく待遇給料は同じで女性が演出[注 2]をした映画も多数ある[8]

沿革

  • 1949年北海道大学教授中谷宇吉郎、日映出身のカメラマン吉野馨治、小口禎三、岩波書店小林勇、共同通信社の記者であった羽仁進らにより、中谷研究室プロダクション設立。第1回作品「凸レンズ」製作。
  • 1950年、5月1日、「中谷研究室プロダクション」から改組し「株式会社岩波映画製作所」となる[9]。写真家名取洋之助が参加する。
  • 1950年、写真部を作り「岩波写真文庫」が創刊[注 3]。編集、写真撮影の多くを担当する。
  • 1950年、6月。「はえのいない町」完成。『社会科教材映画体系』の1作目[9]
  • 1951年、「手工業」『社会科教材映画体系』2作目[11]
  • 1953年、「岩波写真文庫」、第1回菊池寛賞受賞。
  • 1954年、「教室の子供たち」、第6回ブルーリボン賞教育文化映画賞受賞。
  • 1954年、「佐久間ダム 第1部」(第2部1955年、第3部1957年、総集編1958年)[注 4]
  • 1955年、「ひとりの母の記録」、キネマ旬報ベストテン短編映画1位。
  • 1957年、「遭難」、第12回芸術祭芸術祭賞。
  • 1957年、テレビシリーズ「たのしい科学」(1957-1962で全239作品)開始[注 5]
  • 1958年、「岩波写真文庫」終刊。
  • 1959年、新社屋完成[14]
  • 1960年、テレビ番組「たのしい科学」シリーズ、第13回広告電通賞受賞。
  • 1960年、6月。特別嘱託労働組合結成。経営側との交渉は牧衷が行った[14]
  • 1961年、「不良少年」、キネマ旬報ベストテン日本映画1位。「メダカの卵」、第16回毎日映画コンクール教育文化映画賞受賞。
  • 1963年、「ある機関助士」、第18回芸術祭文部大臣賞。
  • 1964年東京12チャンネル開局。同局の番組「謎の双曲線」、「ハローCQ」(やなせたかし脚本)、「こどもの国」、「テレビ医学研究講座」(企画:日本医師会、1989年まで放送)を制作。
  • 1966年、岩波映画の撮影隊は同年8月から翌年2月まで、中国に滞在し、文化大革命時の現状を長編記録映画に収めた「夜明けの国 (黎明之国)」を制作[15]
  • 1967年、5月19日。賃金と経営方針をめぐって初めてのストライキが起こる[14]。「夜明けの国 (黎明之国)」劇場公開。
  • 1967年、科学映画室開設。室長には牧衷が就任[14]板倉聖宣の協力を得て科学教育映画体系の制作が始まる。
  • 1972年ニクソンショックの影響により科学教育映画体系が終了[14]
  • 1973年、テレビ番組「生きものばんざい」(製作:毎日放送)スタート。
  • 1975年、組織改革のため、子会社として岩波映像販売株式会社他設立。
  • 1998年、経営不振により倒産。
  • 1999年、岩波映像販売が岩波映像株式会社と社名を変更。岩波映画作品や他社作品を販売、貸出しするだけでなく、映画製作もおこなう。(「坂の上のマリア」など)
  • 2022年、3月31日、岩波映像株式会社が営業停止。
  • 2022年、4月30日、岩波映像株式会社が解散。岩波映画製作所作品の著作権は記録映画保存センターに移転。

  1. ^ よしのけいじ(1906-72)。映画カメラマン。大映映画、東宝映画を経て、戦後に中谷らと共に岩波映画を創立[1]
  2. ^ 岩波映画では制作責任者だった吉野馨治の「記録映画は現場を演出家が演出して作るんだ。監督ではない」という考えで監督という呼び名は使わず「演出」と呼んでいた[7]
  3. ^ 映画部門の採算が厳しいため経営を助けるために作られた。1958年までに全286冊刊行[10]
  4. ^ 第一部は一般公開され300万人もの観客動員を記録した[12]
  5. ^ 日本テレビ系列で放映された。日本のテレビにおける科学番組の草分けである[13]


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