岩波映画時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:38 UTC 版)
1959年6月、30歳の時岩波映画製作所にテレビ番組「楽しい科学」の企画・脚本スタッフとして入社。10月に結婚し、練馬区豊玉に転居。1962年の番組終了まで脚本を書いた。そのほとんどは現在DVD化され仮説社から販売されているされている。1961年、32歳の時1950年のレッドパージ反対闘争以来の旧知であった板倉聖宣と再会。板倉のアドバイスを受けて何本かの脚本を書き、テレビ番組用の科学映画を作った。1962年に板倉から仮説実験授業の構想を聞き、大いに共鳴した。1965年1月、36歳の時に岩波映画に科学室を創設。室長として岩波映画製作所の科学教育映画全体を見ることになる。「岩波・科学教育映画体系」のプロジェクトを始める。1965年3月横浜市鶴見区の旧宅に転居。1966年1月、37歳の時科学教育映画体系第1作「力のおよぼしあい」が完成。以後1972年4月のプロジェクト終了まで24本の映画を制作した。1973年4月に第15回科学技術映画祭で科学技術特別功労者特別表彰を受けた。1975年8月、46歳の時岩波映画取締役になる。労働組合との対応に忙殺された。1987年6月、58歳で岩波映画退社。
※この「岩波映画時代」の解説は、「牧衷」の解説の一部です。
「岩波映画時代」を含む「牧衷」の記事については、「牧衷」の概要を参照ください。
- 岩波映画時代のページへのリンク