北条氏長
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長14年(1609年) |
死没 | 寛文10年5月29日(1670年7月16日) |
改名 | 梅千代(幼名)→氏長→氏永→正房 |
別名 | 新蔵(通称) |
戒名 | 趙州院殿栢陽西意大居士[1] |
墓所 | 東京都豊島区 摠禅寺 |
官位 | 従五位下、安房守 |
幕府 |
江戸幕府 小姓組、徒頭、鉄砲頭 持筒頭、新番頭、大目付 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
氏族 | 後北条氏(北条新蔵家) |
父母 | 父:北条繁広 母:遠山景信の娘 |
妻 | 正室:北条氏則の娘[2] |
子 |
氏平、孫九郎(元氏?)、元氏、氏如[3] 娘(松前泰広室)、娘(辻忠高昭室) 娘(内藤政季室)、娘(堀親泰室) 娘(鈴木長頼室) 養子:福島国隆[4] 養女:北条氏清の娘(伊丹勝元室) 娘:娘(北条元氏養女) |
生涯
慶長14年(1609年)、後北条氏の一族・北条繁広の子として江戸で生まれる。曾祖父は北条綱成。外曾祖父は北条氏康。幼名は梅千代。慶長17年(1612年)、4歳の時に父が急死する。父は本来であれば実兄で養父にあたる下総岩富藩主・北条氏勝の跡を継ぐべき人物であったが、重臣たちの妨害で家督を継げずに憤死した[5]。これを大御所・徳川家康は憐れんだとされ、氏長養育のために禄高500俵を与えた。慶長19年(1614年)に家康に謁見して、さらに元和2年(1616年)に第2代将軍・秀忠に謁見した。
寛永2年(1625年)、小姓組として召し出され、正式に禄高500俵の旗本となる。その後は徒頭、鉄砲頭、持筒頭、新番頭を歴任し、承応2年(1653年)、従五位下・安房守に叙任された。明暦元年(1655年)から寛文10年(1670年)まで大目付を勤めるまでに累進し、石高も最終的に2000石を超え、堂々たる大身旗本となった。
寛文4年(1664年)、尾張国と美濃国の尾張藩領・旗本領で隠れキリシタンが検挙された事件、いわゆる「濃尾崩れ」に関し、江戸に派遣された尾張藩のキリシタン奉行(宗門奉行)海保弥兵衛が幕府の宗門改役であった氏長に面会し、氏長から隠れキリシタン捜索の指導を受けている。なお当時の江戸切支丹屋敷には岡本三右衛門(ジュゼッペ・キアラ)が暮らしていた。
寛文10年(1670年)、死去。享年62。
子孫
家督は長男の氏平が継ぎ、1638年生まれの次男元氏(もとうじ)は分知を受けて別家を興した。
元氏は初めは泰繁と名乗り、従五位下播磨守。妻は小堀政尹[6]の娘であるが死別し、後妻を迎えている。持弓組頭を勤めた。
三男の北条氏如は氏長晩年の寛文6年に生まれた。次兄元氏の養子となり、元禄4年に登用され小姓組、以降は下田奉行、佐渡奉行などを歴任し、寄合となった。氏如は常安と号し学問で知られ、5代将軍徳川綱吉に『論語』を講義したこともあった。北条流兵法も受け継ぎ、義理の兄弟の福島国隆と共に松宮観山の師としても知られる。享保12年6月14日、62歳で死去。
軍学者
小幡景憲から甲州流軍学を学び、それを改良し北条流兵法を開いた。近藤正純・富永勝由・梶定良らとともに「小幡門四哲同学」として名が挙がっている。
『兵法雄鑑』『雌鑑』『士鑑用法』など多くの軍学関係の書籍を残しており、また幕府の軍制を整備して慶安の軍役令を起草している。
氏長の兵法の特徴はまず、それまでの“軍学”や“軍法”といった言葉ではなく兵法という言葉を用いたことである。これまでの軍法は抽象的、概念的なものや武士の心得といったものが多分に含まれていたが、氏長の兵法は「実践に役立つ軍事学のみ」であった点が大きい。
例えばこうである。
篭城してる時、敵が銃弾や弓矢を撃ってくる時、負けじと反撃するのは損である。
そういう時は敵はいきなりは襲ってこないものである。
攻め手兵がこちらの石垣や塀に取り付いている時こそ、矢玉を使うチャンスである。
身を乗り出してでも撃つべきである。
なぜなら攻め手側の射撃手は“味方兵に当たるのを恐れて”撃ってこないから。
慶安3年(1650年)には、後述するオランダ東インド会社に勤務していたスウェーデン人砲兵士官のユリアン・スハーデルによる攻城実演をまとめ上げた日本初の洋式攻城・築城術書『攻城 阿蘭陀由里安牟(オランダ・ユリアン)相伝』[7]を将軍家光に献上している。
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