北条氏長
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地図の革命者
氏長を語る上でもう一つ欠かせないのは「地図」である。前述した書の基となるが、慶安3年(1650年)8月6日、江戸郊外牟礼野の原野にて、オランダ東インド会社指導(ユリアン・スハーデル)による幕府主催の臼砲を用いた攻城戦の演習が行われた。軍学者であり幕府中枢の官僚でもあった氏長は、この機会を参加観覧および学習している。この時、正確な大砲射撃のための必要性から洋式測量術(規矩術)を習得したと言われている。
正保元年(1644年)12月2日、将軍徳川家光は全国諸藩に対し、郷帳の作成と提出、および藩領の地図(絵図)、海陸の道筋と古城を書いた道之帳を提出するよう命じた(正保郷帳を参照)。大目付井上政重とその命を受けた宮城和甫は12月16日から、諸大名の留守居を呼び出して翌年中の提出を命じ、国絵図(正保国絵図)、城絵図(正保城絵図)といわれる、膨大な数の絵図面が諸藩から提出された。それらを元にして、幕府は日本全図(地図)の製作に取りかかったが、この仕事に就いたのが氏長であったとされている。提出は国単位で行うように命じられていたが、多くの藩では(地図以外の提出義務の資料を含めて)翌年と定められた提出期限を守ることができず、提出まで数年かかり、正保年間(1644年 - 1648年)より後にずれこむものもあった。慶安4年(1651年)、「正保日本図」と呼ばれる地図が完成し、幕府上層部に献上された。この命令の発布の際、幕府は6寸1里(21,600分の1)縮尺を用いるよう諸国に命じたため、以後諸国の地図はおよそ同縮尺に統一された(ただし近年の研究では、「正保日本図」作成は井上とその命を受けた宮城によるものとする説があり、この段階においては当時新番頭であった氏長は関与していない、あるいは下僚として限定的な役割に留まったとする見解がある。この場合、氏長は寛文9年(1669年)に行われた校訂事業の責任者であったと考えられる)。
明暦3年(1657年)1月、江戸市中が明暦の大火に見舞われた際、当時大目付であった氏長は、まさに打ってつけの人材として江戸市中の実測図の作成と区画整理の責任者を命じられる。この際、長崎にて洋式測量術(規矩術)を習得した金沢清左衛門(肥前島原藩出身。主家改易後浪人中であった、とされるが高力隆長の改易は寛文8年(1668年)まで下り、微妙に年代が合わないかもしれない)を抜擢登用し、実作業に当たらせている。被災後の江戸に対し、半月ほどの集中測量を経て「明暦江戸実測図」が製作されたと言われている。従来の絵図面という表現ではなく、正確な測量に基づいたこの市街地図は画期的であり、それ以降の江戸市街地図の基本となり、その後刊行され、民間に地図が普及するきっかけになったと言われている。ただし刊行版は精密すぎたため、大判5枚に分割されており、使い勝手は悪かったそうである。
死去前年である寛文9年(1669年)、日本全図の校訂を行って、改めて幕府に提出している。
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