正保国絵図、正保城絵図と正保日本図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 05:02 UTC 版)
「江戸幕府の地図事業」の記事における「正保国絵図、正保城絵図と正保日本図」の解説
正保元年12月25日(1645年1月22日)、幕府は諸大名に対して国絵図・郷帳・城絵図の作成を命じた。正保国絵図作成には6寸1里(21600分の1)という全国共通の縮尺が導入された。正保国絵図の正本は江戸城焼失により現存しないが、その写しは各地に存在する。 また従来、慶安4年(1651年)に新番頭北条氏長が諸国の国絵図を元に全国地図を作成して幕府に献上したと言われてきたが、近年の研究では全国地図の作成責任者は大目付井上政重であったこと、慶安4年時点で未だに国絵図を完成させていない藩が存在する事が明らかになっていることなどから、同図の作成者を北条氏長とする記録には誤りがあり、実際の作成責任者は井上政重と見るのが適切であるとされる。この場合、北条氏長は寛文9年(1669年)に行われた校訂事業の責任者であったと考えられる。 なお、井上政重が作成した日本総図は承応年間には完成したとみられているが、明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火で正保国絵図とともに焼失してしまった。北条氏長の校訂は諸大名による国絵図の再提出から始まる事実上の新造と考えられている。このため、井上政重による焼失前の地図は存在せず、現存する「正保日本図」は全て北条氏長による地図に由来するとも考えられたが、近年になって国文学研究資料館と島原図書館(松平文庫)に焼失前の地図の写しが存在することが判明した。
※この「正保国絵図、正保城絵図と正保日本図」の解説は、「江戸幕府の地図事業」の解説の一部です。
「正保国絵図、正保城絵図と正保日本図」を含む「江戸幕府の地図事業」の記事については、「江戸幕府の地図事業」の概要を参照ください。
- 正保国絵図、正保城絵図と正保日本図のページへのリンク